さようなら、吉朝さん。
それはまだpgが、囲碁を始める前のこと。大阪の梅田に太融寺という大きなお寺がある。その離れは、どれくらいの大きさだっただろう。和室の十二畳くらいだったかもしれない。そこの一角に薄っぺらい灰色の幕を引き回し、控えの楽屋にして区切ってあったから、客席は本当に小さなスペースだった。「吉朝・雀松二人会」という勉強会。若手落語家は、こういう所で新しいネタや、勉強したいネタを掛けて、自分の芸の肥やしにしていた。吉朝は米朝師匠のお弟子。雀松は枝雀師匠のお弟子である。どちらの噺家も、ネタのさばき方は上手かった。はっきりいって正統派の噺家だったから、見ていて不安な所はなかったように思う。でも、それだけに落語の一番大事な「面白味」という点が、欠けていたことも事実だった。つまり『華がない』というわけだ。芸人とすれば致命傷ということだろうか。その当時の上方落語界は、米朝、枝雀などのホール落語が盛んで、他の一門も同じように落語を演じていたけれど、やはり正統派となると米朝一門の勉強ぶりは頭一つリードしていたと思う。そんな中、芸歴十年あたりの若手がこぞって勉強会を開いていたのだ。pgはこの会を聞いて、吉朝に惹かれた。確かに噺は上手い。若手の中でこれくらい上手い人はいないだろう、と思う反面、よく言われていた「米朝の小型」という感も否めなかった。上方落語の旦那噺に、声質がよくあっていて、女形も上手い。丁稚連中の子供っぽさも出せる。やたけたの熊五郎のような、迫力もあった。でも、それだけだった。本人も感じていただろうけれど、吉朝には常に「米朝の小型」というような印象がつきまとっていた。上手に演じるけれど、どうしてもそれが師匠の芸にかぶるため、吉朝としての味を出すところまでは行かなかったように思う。でも、なぜか惹かれるものがあった。芝居噺などの、所作の美しさや器用さ。ちょっとした間の使い方。目線の使い方など、ツボにはまるとぞくぞくするくらい面白かったのだ。でも、世間からはなかなか認知されない。テレビ文化の流れの中で、それほどタレントとして器用な立ち回りの出来なかった吉朝は、地味なまま埋もれていくのではないか?と思えるほどだった。それがいつしか、芸の幅が広がって、少しずつだが吉朝の良いところが世間に見えてくるようになった。もともと芸の力はある。噺のテンポももっていきようも上手い。小手先だけの芸ではないから、大きな舞台もつとめられる技量もある。若手が四人集まって、一年で三回、独演会をホールでやることになったとき、pgはすべて見に行ったのだが、やはり芸の力ということになると、吉朝は安心してみていられたし、上手かった。でももう少し何かが欲しい、もう一段階段を上がって欲しいというところはあったと思う。吉朝が深夜のラジオ番組を担当することがあった。やっと、若者感覚のような派手さでDJをするかと思ったが、逆に妙な時代がかった番組になってさらに地味になったり。自虐的なコメントの端々に「若さがないわぁ」などの発言があって、本当にそうだなと苦笑した日々。それが、吉朝の吉朝たるゆえんなのだろうと、不思議な部分で納得したりもした。そうこうするうちに、やっと春が巡ってきた。それは悲しいことに、上方大看板の枝雀が命を散らしてしまった為でもあったろう。次代のホープとして、吉朝の芸が認められて来たのだ。サンケイホールという1200人ほど入る大ホールでの独演会は、米朝一門にとっても大舞台だ。それを満杯にして大ネタ「地獄八景亡者の戯れ」を見事につとめ、さらに評価をあげた吉朝。太融寺で小さな勉強会を行っていた時とは、比べものにならないキャパシティである。そこで、以前の端正で地味な芸風だけではない、吉朝の持つ一種独な世界が展開されて、笑いの渦が巻きおこっていた。マスコミでも大きく取り上げられ、テレビ番組のレギュラーも増えた。上方お笑い大賞も受賞し、名実ともに、一流の上方落語家になれたはずだった。2002年、吉朝は病魔に倒れた。胃ガンだったという。手術で胃の三分の二を切除し、それでも復帰して自分の病気をネタにしながら、お客に笑いを振りまいていた。しかし、この病魔は大切な上方落語の噺家にとりついたまま、とり殺してしまうことになる。享年50歳。若すぎる。噺家として、これからが芸の円熟期ではないか。なぜ?そう思うだけしかできない。若い頃、小さな小屋で「放送禁止用語(下ネタではない)」まるだしの挑発的な噺をかけていたことがあった。言葉狩りを嫌った筒井康隆氏のような、反発に思えた。それほど派手な爆笑を得るわけでもない芝居噺や、奇妙な珍品噺などを好んでかけていた。それは師匠米朝が、上方落語の絶滅を危惧して、噺を残そうと奮闘した名残だったのか、それとも自分の趣味だったのか。pgは自分の趣味だったのではないかと思っている。そういうことを、好んでやる噺家だった。噺家としての最後の高座も、「ながたん息子(弱法師)」という、なじみのない噺だった。得意の爆笑「ふぐ鍋」は、体調が悪く高座に掛けられなかったらしい。病気でやせ細って、見るのもかわいそうなほどだった吉朝。主治医同伴で上がった高座で、何を思ったのか。若手の落語会が終わったあと、飲みに連れて行ってもらって、噺家さんの悪じゃれた会話を面白く聞かせてもらったこと。勉強会の案内状に、面白い絵を描き加えて、笑わせてくれたこと。差し入れのダルマとチーズのセットを、嬉しそうに受け取ってくれたこと。真四角な顔に、古くさいめがねをかけて、外套を着込んでトランクを持って笑っていたあの姿を、今でもすぐに思い出せる。病魔に倒れ復帰したあとに、もうこれで安心と思って会いにいかなかった。どうして、もっと足繁く噺を聞きに行かなかったのだろう。こんなに早く逝ってしまうなんて。後悔ばかりが胸を責める。さようなら、吉朝さん。あなたの噺を、pgは一生忘れません。安らかに、お眠りください。文中敬称略