カテゴリ:反天皇制
戦前の(現人神)が大歓迎された(戦後巡行)に(洗脳)の恐ろしさを見る・・・ 2024-9-13 はんぺん 「第二次世界大戦の終結後、昭和天皇自身の発案により[1]、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月まで、8年半をかけて全国各地(米国統治下の沖縄を除く、全46都道府県)を行幸した。」(ウイキペディア) ヒロヒト(裕仁)が、始めた、あのアジア・太平洋戦争・・・・ヒロヒト(裕仁)は、その戦争責任を追及される事無く、命拾いした。
この男は、1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間、(戦後巡行)と言われる全国行脚を実行した。 戦前からの(皇国史観)で、洗脳され切った各地の民衆は、命拾いしたヒロヒト(裕仁)=戦前の(現人神)を大歓迎した・・・という。
(戦争の惨禍)の最大の(犯罪人)のヒロヒト(裕仁)を国民の多くが大歓迎した・・・ところに(洗脳)の恐ろしさが、ある!!! 生活の全領域で(天皇崇拝)(皇室神話)が、入り込んでいたという事だろう・・・今の金日成=金正日=金正恩による(金王朝)の支配下の北朝鮮民衆の実態を重ね見る思いだ・・・・
民衆による多くの戦争体験の記録は、貴重だと思うし、後世の我々が知っておくべき事柄が、宝石のように散りばめられているので、いつも大事に目を通したり、拡散するようにしてきたが、いつも思うのは、これらの体験談の中に真の戦犯=ヒロヒトの記述が無い事だ。 (菊のタブー)は、今現在も生きている・・・という事だ。そして(人みな平等)という観点から、廃止されねばならない(天皇制)が、今なお、大手を振って、社会的な存在感を持ち続けている・・・ということだ。
地球儀を俯瞰して見れば、世界に王室・皇室なる前時代的な遺物は 27~28か国もあるという(権限や国王の姿、政治への関わりは、国や地域によって大きく異なる) 時代に沿わない遺物に縛られ続ける人間・・の持つ限界とは、この事かもしれない。それが、いつか我々自身を破滅に追いやるだろうことの確立は、低くはない・・・と思うのだが、どうだろう・・・ 以下の朝日新聞の(声)には、戦犯ヒロヒト(裕仁)の(ヒ)の字も出てこない!! 朝日新聞が編集段階で、(自主規制)しているようだ!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――― 学童集団疎開 (声)語りつぐ戦争 2024年8月17日 朝日新聞 太平洋戦争で都市の空襲が激しくなり、1944年夏、主に国民学校3年生から6年生の児童を地方に移住させる学童集団疎開が始まった。東京や大阪などの都市部の児童らが、旅館や寺院などで集団生活を送った。疎開児童は60万人という説もある。子供たちを避難させ、戦争に注力する側面もあったという。 ■カルピスと脱出、伊豆での記憶 無職 K(東京都 89) 夏の盛りの1944年8月早朝、東京都大森区(現大田区)の池上国民学校の校庭に集合。天皇陛下万歳をして、私は学童疎開へ出発した。 この約2カ月前、戦況悪化に伴い、政府は都市部の児童らを対象に「学童疎開促進要綱」を閣議決定。親戚など縁故疎開先のない児童を集団で地方に疎開させはじめた。 私はこの時、3年生だった。荷物は寝具一式と行李。行李の中には教科書、名札を縫い付けた衣服、食器、歯ブラシ。玩具は行軍すごろく、けん玉が持参を許された。 疎開したのは静岡県伊豆の国市の古奈温泉の旅館。伊豆長岡駅で出迎えてくれた人にコップ1杯のカルピスを頂き、飲み干した。感激した。 学童四十数人ごとに分宿し、先生1人と寮母2人が同宿。宮城遥拝(ようはい)や乾布摩擦、体錬の日課が続いた。 数日たつと、誰もが親を、東京を恋しがった。ある日の夕刻、学童3人が東京に帰ろうとして密かに伊豆長岡駅に行き、保護された。先生たちの監視がより厳しくなった。 ■ひとり月10円、保護者が負担した 無職 K(大阪 90) 大阪市の神津国民学校4年生だった1944年の夏、大阪府北部の池田市にある釈迦院という寺に集団疎開した。父は大阪市内で小さな鉄工所を営んでいた。田舎に頼れる親戚はなく、縁故疎開はできなかった。 4年生の私、それと3年生と1年生の妹がいた。最後まで集団疎開ができたのは私ひとり。妹ふたりは違う集団疎開先に行ったが、間もなく家に戻った。集団疎開には生活費などの保護者負担があり、子ども1人当たり月10円。今だといくらになるのだろうか。3人を出すことは、家計に相当響いたはずだ。 疎開先では時々、炒った大豆20粒ほどが手渡されたが、一粒の差で大げんかになった。 別の地でもう一度疎開をし、家に戻れたのは敗戦の2カ月後だった。食料確保に母は農家に出向き、次々と自分の和服を手放した。子ども服を求められた時は泣いていた。 親の負担も知らず、家族と無理矢理離された疎開。親と共に暮らす妹たちをうらやんだ記憶もある。 ■母のかやくご飯、持参してくれた父 主婦 KA(奈良 92) 大阪市の久宝国民学校6年生だった1944年夏、滋賀県の近江八幡市の公会堂に集団疎開した。 おなかのすくのには困った。朝昼晩とサツマイモづくしで、イモの嫌いな子は泣いていた。ある日、公会堂に帰ると父がいた。大きな風呂敷包みを私に手渡すと「元気な顔、見たから帰るわ」と一言だけ言って帰った。疎開する直前に2歳7カ月の弟が病気で亡くなっていた。 私は無言で部屋に戻った。小包には、かやくご飯のおにぎりがどっさり入っていた。男子生徒にまで分けるほどはない。夜に女子生徒皆で分けて布団にもぐって黙って食べた。末の子を亡くし、初めて親元を離れた娘を心配したのだろうか。母がおかずがいらないように作ってくれた、かやくご飯。ありがたかった。 翌年2月、女学校入試で大阪へ帰り、明日、卒業式という3月13日深夜からの大空襲で焼けだされ、4月に無試験で女学校に入学した。 ■ビンタではなく、ゴンタを食らう 会社役員 TA(千葉県 91) 東京都豊島区の池袋第五国民学校6年生の私と3年生の弟は1944年夏、長野県高山村の旅館に疎開し、苛(か)烈な制裁にあった。先生による体罰で、平手のビンタと違い、拳骨(げんこつ)で頬を強く殴られるのでゴンタと名付けた。これは恐怖であった。 布団を畳むのがいちばん遅い班の全員が殴られ、何の理由もなく、気合を入れるからと私も殴られた。3日ほどかむ時に痛みが残った。 ある時、5年生の男子が親からの小包を先生に無断で持ち出した。盗みと見なされ、ゴンタを食らった。顔が腫れ、口の中が切れて食事ができず、別の部屋に寝かされた。 たまたま面会に来た私の母が介抱した。訳を知り、母は私たちを連れて帰ると言い出したが、当時の風潮では、帰ると言うこと自体が「戦線離脱」「敵前逃亡」に当たると考え、私は拒否した。こういった制裁はこの先生に限ったことかもしれないが、忘れられない出来事である。 ■玉音放送、悲しさよりうれしさ 主婦 TU(神奈川県 87) 我が家は当時、大阪の街中にあり田舎に親戚もなく、戦火が激しくなった1945年の春、親は大阪市の田辺国民学校2年生だった私を集団疎開に行かせた。 大阪の郊外、河内長野市の天理教の教会の大広間で集団生活が始まった。食べ物は、小さなお皿にコーリャンが少し入ったおかゆ。それにサツマイモのつるを煮たものや、みんなで小川の川辺で摘んだセリのお浸しなどがおかずにあるだけ。いつも空腹だった。そんな中、面会に訪ねてきた母が持ってきたおはぎはおいしすぎて、今でも忘れられない味である。 8月15日、先生に重大な放送があるので大広間に集まるようにと告げられ、正座をしてラジオ放送を聴いた。言葉が難しく、理解できずにいると、先生が涙をこらえながら戦争が終わり、日本が負けましたと伝えた。玉音放送だった。私は悲しさより、家に帰れるんだとうれしかった。あれからもうじき80年、よく生きながらえたと思う。 ■どこでも同じ月、父の便り思う 無職 NE(東京都 89) 東京都世田谷区の玉川国民学校4年生になった1945年春に、長野県小布施町の寺で集団疎開をした。空襲の警戒警報のために暗くなった世田谷の等々力駅で家族と別れた。 千曲川近くの寺に着き、それから毎夜、本堂に布団を敷き、東京の方角に向いて「お父さん、お母さん、お休みなさい」と言った。集まった皆が大声で泣く。ひとり私は本堂から出て階段に座り、空を見上げたものだった。中国の戦地から父が「どこに居ても同じ月を見ているからネ」とはがきに書いて送ってくれた言葉を思った。 初めての夜は、一人でいた私に、寺のおばさんが「お風呂においで」と五右衛門風呂に入れてくれた。その後もよく声をかけられた。寂しそうにしていた私を気遣ってくれたのだろう。レンゲが土手に咲き、汽車が時折、東京に続く線路を煙をなびかせて走る姿が、目に浮かぶ。小布施を訪れ、人々に感謝したい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.15 23:17:23
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