人は、戦争で死ぬために生まれてはこない。
【2004-05-05 当日記のアーカイブスです。】前にも日記に書いたが、自分の母親を殺しにかかったアメリカ人はムスタングという美しい飛行機にのってアクリル風防から標的にした蒸気機関車を母親の頭上からはっきりと見定めて12.5ミリ機関砲をくりかえし掃射している。子供の頃に聞いた記憶では1機だと思ったのだが最近ふたたび母親に聞きただしたところ3機だったという。迎撃するような戦闘機が日本の上空に存在しない事も問題だけれど蒸気機関車から逃げ出した老人や子供、若い少女たちを射殺する事を対航空戦用の機関砲で実行するという感覚がわからない。逢坂山トンネルを山科から野洲に向かう道中は、実に開けた平野地だ。ようするに3機のムスタングは、戦闘行為という自覚ではなく非戦闘員を頭上から殺傷することを目的として待ち受けていたのだろう。停止した車両から逃げ出した人達を一人づつ丁寧に撃ち殺している。後で助かった母親は、京都府立医大の看護婦なのだから気丈に殺された人達をそれぞれ検分している。けれど当然ながら到底機上のパイロットに反撃するような火器をもっている人など一人もいない。みな背中から機関砲を打ち込まれ、頭ごとふきとんでしまった赤ちゃんもいたと言う。母親が無事無傷で助かったのは奇跡的だったと思う。(他界した親戚の老人の身代わりだなどとか神がかりな事を母親は言っているがようするに偶然に過ぎないと私は思う。)同じ客車のほとんどすべての乗客、女子供を問わずこの襲撃で死傷している。米国人はなにかにつけてリメンバーパールハーバーを言うが、彼らが戦争中に本来の軍事行動とはまったく関係のないこのような軍人による犯罪行為を多数繰り返していることについては、どのように考えているのだろうか。軍指導の上層もこれを諌めて抑止していたというフシも感じられない。そもそもカーチスルメイ将軍など、いかに効率よく日本の非戦闘員(ようするにじいちゃん、ばあちゃん、にいちゃん、ねえちゃん)を焼き殺すかを熱心に研究していたわけだ。日本人は戦後、なにかと言うと広島、長崎の原子爆弾のお話にもってゆくが、東京や大阪、名古屋でアメリカが落とした油性爆弾で木造家屋を焼かれて死んだ人が壮絶に多いのだ。これについて戦後、アメリカにまっすぐに抗議した人の話を聞いた事がない。また、殺されかけたことも忘れて靖国神社に出向いて清掃奉仕をしようという親戚のおばさんがいたので、わが母親は罵倒してやめさせた。靖国神社の宮司かなんぞの中に、アメリカが意図的に非戦闘員とあきらかに分かっている日本人へ向けて実行されたこれら殺傷行為を犯罪であると糾弾したものがいるのか。寡聞にして耳にしたことがない。彼らが全国から参拝する遺族や国民からの浄財でなりわいしているのであるのならば、その国民がいわれなく戦争被害者として戦中、戦後悲嘆の苦しみに喘ぎ過ごしたことについて一度はきちんとアメリカにむけて抗議してみたらどうなのだろう。戦争に参加した軍人の慰霊を話題にするのならば、彼ら軍人や戦争指導者らが粗忽にも無計画に始めた戦争でロクすっぽ勝てもせず、いたずらに戦争にまきこんで殺されていった幾百万もの国民の慰霊をどのように考えているのか。「軍国主義者の戦争遂行能力と抗戦意志を挫く」という戦略爆撃の思想にもとづくが、日本の戦争責任とならび、非戦闘員(市民)に対する無差別攻撃として戦争責任を問う考え方もある。「東京大空襲」(↑クリックでジャンプします)ようやく東京大空襲の概略が、関係者の手で明らかになりつつあるようだけれども、実は戦後50年まったく同じ思いで過ごしていた国民はあまたいるはずである。そのような体験咀嚼をまじめに積み上げてこなかったからこそ、今またしてもアメリカがイラク進攻に際していつものように非戦闘員に対する無造作な殺戮行為を諌めることも制止することもできないで、傍観していることになる。まして自衛隊をばかばかしいかたちで派遣しているために政府声明もだせない事態にあるのだろう。だから、パウエルに「お仲間だから仲良くしようぜ」みたいなアピールをされてしまうのだ。この恥ずかしさをよくよく考えた方がよい。自分は、アメリカの軍人が最終的に命がけで我々の生命財産を守ってくれるなどと信じたことは一度もない。当時、18歳であった母親はその後大阪の大空襲で罹災した市民を看護婦として救援に出向いている。当たり前のことなのだが、日本での大戦中の戦争被害は当然東京、広島、長崎だけにとどまらない。大阪の罹災者を救援に出向いた母親の業務は、ピンセットでその肉に食い込んだガラス破片をつまみだすことだけに日々忙殺され、投与する薬など皆無だったと嘆息していた。都市部の戦争被害の様相がそれである。いまイラクなどで進行している戦争被害の規模と災悪を想像することは到底おぼつかない。(シャルドネ)【2004-05-05 当日記のアーカイブスです。】(↓クリックでジャンプします)「大阪市大空襲」次数 月日 来襲の戦力 被災の状況 B29 投下弾 戸数 被災者 死者 不明 1 3月13日 274機 焼夷弾 1,773屯 136,107 501,578 3,987 678 2 6月 1日 458機 焼夷弾 2,789屯 65,183 218,682 3,112 877 3 6月 7日 409機 焼夷弾 2,594屯 58,165 199,105 2,759 73 4 6月15日 444機 焼夷弾 3,157屯 53,112 176,451 477 67 5 6月26日 173機 爆弾 1,140屯 10,423 43,339 681 63 6 7月10日 116機 焼夷弾 779屯 16,488 65,825 1,394 9 7 7月24日 117機 爆弾 704屯 893 3,503 214 79 8 8月14日 145機 爆弾 707屯 1,843 2,967 359 79 ↑このリンク先に大阪市大空襲についての、記述がある。そちらには、「昭和23年本市は当時校庭や公園の片すみに仮埋葬された遺体の改葬を行い、無縁の遺骨2870体をここ服部霊園に合葬しましたがこのたびこの塔を建立し大阪市全市の戦災死者の霊を弔うこととしました」とある。大阪の府民は、服部緑地で運動会をやる企業などが多いがあの服部緑地に隣接する霊園にこのような歴史沿革があることを自覚している者がどれだけいるのだろうか。以下は、イラクの消息を伝えるとされているレポートです。原文には文字のクリックからあたれると思います。伝えられる状況に最も理解も反応もありえるのはまさしく母親の世代ではないかと思われる。戦争罹災者の視点で日本側からの声が湧き上るべきだと私は思うのだけれども、残念ながらあの時代の証言者らが当事者としてインターネットに登場するには、キーボードの障壁に阻まれて声明を述べる機会を得ないと思われる。まことに残念なことである。(シャルドネ)【ダイジェスト】(クリックで原典にリンクしています。)到着後、私たちは物資をバスから降ろした。荷箱はすぐに引きちぎるように開かれた。最も歓迎されたのは毛布だった。そこは病院と呼べるものではなく、ただの診療所だった。米軍の空襲でファルージャの大病院が破壊されてから、ただで人々を診療している個人医の診療所だった。もう一軒の診療所は、ガレージに臨時で作られたものだった。麻酔薬はなかった。血液バッグは飲み物用の冷蔵庫に入っており、医者たちは、それを非衛生的なトイレのお湯の蛇口の下で暖めていた。 女性たちが叫び声をあげながら入ってきた。胸や顔を手のひらでたたき、祈りながら。ウンミ、お母さん、と一人が叫んでいた。私は彼女を抱きかかえていた。それから、コンサルタント兼診療所の所長代理マキが私をベッドのところに連れていった。そこには、頭に銃による怪我を負った10歳くらいの子どもが横になっていた。隣のベッドでは、もっと小さな子どもが、同じような怪我で治療を受けていた。米軍の狙撃兵が、この子どもたちとその祖母とを撃ったのである。一緒にファルージャから逃れようとしたところを。 明かりが消えた。換気扇も止まり、急に静かになった。その中で、誰かがライターの炎を付けた。医者が手術を続けられるように。町の電気は何日も前から止まっており、発電器の石油が切れたときには、石油を入手するまで、とにかく何とかしなくてはならない状況だった。デーブがすぐに懐中電灯を渡した。二人の子どもたちが生き延びることはなさそうだった。 「こちらへ」。マキが言って、私を一人、ある部屋に案内した。そこには、お腹に受けた銃の傷を縫い上げたばかりの、年老いた女性がいた。足のもう一カ所の傷には包帯がまかれていたが、彼女が乗っているベッドには血が染み込んでいた。彼女は白旗を今も手に握りしめていた。彼女の話も、同じである:「私が米軍の狙撃兵に撃たれたのは、家を出てバグダッドに向かおうとしているときでした」。街の一部は米軍海兵隊に制圧されている。別の一部は地元の戦士たちが統制している。彼女たちの家は、米軍が制圧した地域にある。彼女たちは、狙撃兵が米国海兵隊兵士であるという固い確信を持っている。 米軍の狙撃兵たちは、ただ大虐殺を進めているだけではない。救急車と救助活動も麻痺させている。ファルージャ最大の病院が爆破されたあと残った次に大きな病院は米軍が制圧する地域にあり、狙撃兵たちによって診療所から遮断されている。救急車は、銃弾による損傷を受けて、これまでに4回、修理された。路上には遺体が転がったまま。遺体を取り戻しに道に出ると狙撃されるので、誰も遺体を取り戻すことができない。 (↓クリックでジャンプします)