マッチポンプ時代の慶ちゃん
【以下は2008年楽天ブログの初稿を再録しました。】1927年生まれ京都府出身。茨木中学校、大阪高等学校を経て大阪大学工学部冶金学科に入学し、第二次世界大戦の敗北後に活動していた日本共産党に入党。1950年以降に行われた同党の武装闘争路線を支持し、1952年に起こった枚方事件では、同党の大阪大学細胞(支部)の中心メンバーとして関与した。(西村秀樹『大阪で闘った朝鮮戦争/吹田枚方事件の青春群像』)その後1953年に大学を卒業した後、共産党の衆議院議員だった志賀義雄の秘書を勤める等共産党や社会主義との接点は持ち続けたが、運動の第一線からは退いた。長谷川慶太郎は、大阪の下町にも人気のある経済評論家だ。80年代に自治会の当番で歳末に地域の夜警に駆出されたことがあったが、番所で長谷川慶太郎の愛読者が絶賛していた。定年まぎわで株式投資に踏み込んで、ハセケイ銘柄でかなり儲けたのだろう。その後、散財したのかどうかは知らない。彼などが、大阪大学工学部細胞のリーダーとして占領下の武装共産党に指導者としてからんでいた時代。枚方事件に直接兵士として関わりのあった日本共産党員、つまり武装共産党時代の活動家から直接お話を何度も聞く機会があった。脇田憲一氏(元総評国民運動推進本部長)だ。自分の住んでいたご近所に、京大卒で独身のおばさんがいて、大阪の府立高校の教諭だった。(注 小説家松原真理子)おばさんは、多少くたびれてはいたが、往年の原節子に似た眉目秀麗な方。年齢的には原よりもむしろ若いぐらいだろう。青春期にはどうやら派手なアナーキストだったらしい。共産党ではなく、無政府主義者だった理由は父親の影響という。大杉栄世代の両親という事か。若い時代には田辺聖子と競いあったほどの小説家だったそうだ。相手が、田辺聖子ならば、さぞや引き立ったものと思う。彼女は、実は相当な給与収入があってもこういう世代のオヤジと自分らの世代間ギャップを埋めるための活動に蕩尽してしまい清貧という暮らしぶり。見事なものだった。脇田氏は、彼女のサークルには律儀に出席を欠かさぬ人だったのである。注 松原真理子は鶴見俊輔の直接の指示で「思想の科学大阪グループ」を主宰しておられた。枚方事件といっても、ピンとこないと思う。枚方には、陸軍工廠枚方製造所があった。当然、戦後占領政策下で極東米軍の管理監督されるものとなったのだけれども、実はこの生産インフラが、まんまと小松製作所に払い下げられる。払い下げられた小松製作所は、朝鮮戦争で人殺しをするための大砲の砲弾を量産する。この空恐ろしい受注規模は、半島の朝鮮人の命と換価された稼ぎにばける手はずだったのである。この小松製作所の創業者は、時の内閣総理大臣吉田茂の実の兄である竹内明太郎氏。日本にとっても露骨狂奔域の戦後経済復興策だったのである。これに歓迎しない向きも当然存在した。大阪府下の在日韓国人、とりわけ半島系帰化在日などに多数存在した武装共産党員たちである。自分らの同胞を殺戮する目的の砲弾などをつくられてたまるか、という機運が澎湃と立ち上がっても不思議ではない。この当時の軍事指導者が、長谷川慶太郎やら、村上弘元日本共産党委員長代行が当時の軍事組織の最高指導部といわれている。この時代の共産党の武闘争体質は、あながち責められないと思う古老も多いのである。間違っても連合赤軍やら、サリンばら撒きのカルト教団とは訳が違う。他界した自分の父親やら、父親と懇意だった神崎敏夫らの血が騒ぐというのもむべなるかなという時代相だったと思う。そんな、血の気の多い大阪の下町のおやじらが絶大な信頼を置いていたのは若干その覚有情な挙動に無縁ではないのかもしれない。その後、長谷川慶太郎ファンだったおやじ達がバブル崩壊まで「株を買え」「土地を買え」と、叱咤激励しつづけた慶ちゃんに対して、果たして昨今どんな思いでいるものだろう。まじめに長谷慶の路線についていった、父親は他界していまはいない。来春は、もう一周忌となる。(注 この初稿は2008年楽天ブログ初出)