高村薫著「照柿」の感想
今日の本の感想は自分の覚書です。他の人への配慮はしてありません。---------------------------------------------------------------高村薫著「照柿」の感想高村薫の「マークスの山」はインパクトの強い小説で私の中では大きな存在だ。それでinalennonさんの所で高村薫の「照柿」terigakiの存在を知って早速図書館から借りて来た。とても分厚い本だった。読むのに時間が掛かってしまった。(ネタばれになるかもしれないので これから読みたい人は読み飛ばしてください)●ストーリー●本庁捜査一課の合田総一郎が移動中の電車が止まる直前に男女がもみ合いながら走って来て弾みから女性が線路に落ちて轢かれた所を目撃した事から始まった。男性は佐野敏明。女性は中国人だった。佐野の後から誇線橋から現れたのは佐野の妻美保子。美保子を呼び止め、尋問するもそのまま帰してしまった合田。灼熱の炎夏の東京。18年振りに幼馴染の野田達夫と出会い達夫と合田と美保子の軌道が狂い始めた。―396ページの合田の気持ちを抜粋―拝島駅で偶然に遭遇した轢死に始まり、そこで出会った一人の女美保子、跨線橋の通路で見た一点の血痕、美保子が握った手帳についた血、その美保子に一目ぼれした自分、その美保子と不倫をしている野田達夫との18年振りの出会い、大阪での男同士の醜い争い、嫉妬に駆られて達夫潰しを狙った末の、自分の不正。美保子の身辺に漂う事件の臭い。美保子を接点にして明らかに三者がつながり、美保子の血の臭いが男二人にも降りかかっているのは、予感を通り越して現実に近くなりつつあった。---------------------------------------------------高村薫の文章は簡潔ですごく分かり易い。この通りに進んで行く。●感想●夏なのに重い空気に支配された小説だった。醒めた感覚の思いが積み重ねられて行く。達夫の仕事の手順が詳しく何度も何十ページも書き連ねてある。単純に高村薫の取材能力の高さと濃さに感動した。部品製造工場の熱処理炉の工程が何度も出て来て達夫の人生の明暗を指し示すかのような炉の色の変化が何度も出て来る。高村薫は野田達夫と言う人物を作り上げる時にどれほどの思いと取材を重ねたのだろうかと感動した。それほど徹底して熱処理炉の工程が書き連ねてある。暑い夏の熱い熱処理炉の仕事。部下とのギリギリのやり取り。職場で走り回る達夫の奮闘振りが繰り返し繰り返し出てくる。達夫が段々追い詰められて行く緊張感とまだ起きていないかもしれない事件の予兆とで読んでいるのが苦しくなった。合田もまた狂い始めた思考の方向に翻弄されて美保子に出会った事で決定的に踏み出してしまった。合田と達夫の長い間のその場限りの辻褄合わせの人生がどんどん矛盾を孕んでいくのが見えて来て私は何度か読むのを放棄しようかと思った。それほどこの一冊は甘さの全く無い人間の感性を切り刻んだような話だった。半分まで読んでも面白みが分からなかった。苦しくて逃げたかった。どうしてこんなに逃げたいのかとふと考えてみた。すると見えたものが恐ろしかった。私の辻褄あわせの人生を振り返らされていたのかもしれないとそう思ったのだ。私も辻褄合わせの人生を過ごしているから合田と達夫の苦しさが分かってしまうのだ。そうして生き延びて行くほどに矛盾が大きくなって行き、引き返せないほどにねじれて行く事を本当は自分が一番強く感じているのかもしれない。そう思ったら愕然とした。そして多分、気付きたくなかったのだろう。だから読み進みたくなかったのだ。私は合田と達夫の日々の足掻きとのたうつ様が自分の事の様に思えたので苦しかったのだ。そう分かったとたんに物語りは滑り出し疾走し始めた。今度は逆に読み止める事が出来なくなった。ずるずると一緒になって谷間に落ちて行く。高村薫の容赦無い筆が合田と達夫の生活のズレた支点を抉り出して行く。こんなに人の心の揺れ動きを克明に描き出すのは何故なんだろうと思うほど容赦無い。結婚生活の破綻に至る様々な出来事。振り返って初めて気付く己の踏み後。何故、何処で捻じ曲がってしまったのかを一つ一つ拾い上げて行く。照柿の赤。達夫の父の絵の青。美保子のブルーのワンピース。夏の太陽。感情と傷を色で置いて行く。一冊の中にぽつんぽつんと赤や青が織り交ぜられ「照柿」が仕上げられた。重たい本だった。「マークスの山」の感情移入は「照柿」では出来なかった。「照柿」の登場人物の誰にも感情移入が出来なかった。唯一、合田の同僚でアトピーに苦しみつつ寡黙に仕事をする森義孝には応援したい思いを持った。重くて心を占領され、森を応援したい思いがある事さえ今の今まで気付かなかった。私は私の人生を何とかしないといけない、と心から思った。壊れる前にちゃんと自分を見つめないといけないと思った。