トランクの中の日本
アメリカ海兵隊のカメラマンとして1945年9月2日に佐世保に近い海岸に 上陸し、空襲による被害状況を記録する命令を受け、23歳の軍曹だった 彼は、日本各地を歩くこととなった。 翌年、本国に帰還した彼は、持ち帰ったネガをトランクに納め、二度と 開くことはないだろうと蓋を閉じる、すべてを忘れたかったのだ。 しかし、45年後、彼はトランクを開け、写真展を開催した・・・ 彼の名前は、「Joe O'Donnell(ジョー・オダネル)」 オダネル氏が発表した、「トランクの中の日本」には、彼が私用で撮影 した写真が載せられ、短いコメントが補足されており、被爆者の惨状が 数枚あるとはいえ、どちらかというと彼と日本人との交流や敗戦後の日 本の庶民の様子などが知ることができる一級資料である。 すべての写真が見るものに訴える迫力を有しているのだが、この中で特 に感慨深かった3枚の写真について少し書いてみたい。 表題「OLD MAN」、異風な服を着ている老人を見つけたオダネルは声をか け写真を撮らせて欲しいと日本語で頼むと、彼は流暢な英語で、「いい ですよ」と答えた。 彼はアメリカに在住していたのだが、日本にいる 家族に会いに来て、その後戦争がはじまりアメリカに戻れなくなってし まったというのだ。 老人はオダネルに穏やかにこう話したそうだ。 「息子のような君に言っておきたいのだが、今の日本の有様をしっかり と見ておくのです。国に戻ったら爆弾がどんな惨状を引き起こしたか、 アメリカの人々に語り継がなくてはいけません。写真も見せなさい。 あの爆弾で私の家族も友人も死んでしまったのです。あなたや私のよう に罪の無い人々だったのに。死ななければならない理由なんて何もなか ったのに。 私はアメリカを許しますが、忘れてくれと言われてもそれは無理です」 オダネルはこの言葉を忘れないようにメモし、胸にも刻み込んだ。 表題「ORESSED LITTLE GIRL」、上陸してから数ヶ月、オダネルは廃墟 と化した街並みや出会った人々の痛みや苦しみを見るうちに深く沈みこ んでいった。 そんな11月のある日、彼は着飾った幼い子供たちや母親 に出会い、久しぶりに心が和んだそうである。 オダネルは、普段の様子との違いに驚き、シャッターを切りまくった。 とある母娘に着飾っている理由を尋ねると、ジェスチャーで特別な日で 神社に向かうところ(七五参と知ったのはあとでのようだ)であると 教えてくれた。 そしてこの娘が耳が聞こえないという事実も知った。 アメリカ軍の爆撃があらわれると、すぐに母親は爆音から耳を守るため に子供の耳に木綿や綿などを詰め込むのだが、娘の下に行くのが遅れて、 彼女は完全に、永遠に聞こえなくなってしまったのだ。 表題「CREMATION SITE, NAGASAKI」、ナガサキでは焼き場に死体が続々 と運ばれている、マスクをつけた係員が荷車に山積みにされた死体を無 造作に火の中へ放り込む、それでおしまいだ。 焼き場に10歳くらいの少年が背中に小さな幼い男の子をくくりつけてきた。 焼き場のふちで直立不動の姿勢で立つ少年、係員は背中の幼児を下ろし、 火の上にのせた・・・少年は少し背中を丸めたが、すぐに背筋をのばし、 炎をまっすぐに気をつけの姿勢で見続けていた。 係員によると、弟は昨夜の内に亡くなったそうだ。 少年は口を真一文字に結び、弟を見送り、回れ右をして一度も振り返らず 歩み去った、係員によると、弟は夜の間に死んでしまったそうだ。 ジョー・オダネルといえば、アメリカホワイトハウス付のカメラマンとし て有名だったが、この写真公開後は、反核反戦運動家として有名である。 1995年にはスミソニアン博物館で写真展を開く予定だったのだが、アメリカ 国内の在郷軍人やマスコミの論調により、エノラ・ゲイ以外の展示物は中止 に追い込まれた。 原爆を神話化し、いまでも科学の粋と誇るアメリカ人が多い、それはこのよ うに一方的な原爆神話だけを教え続け、被爆の実態を覆い隠していることが 要因のひとつであるということは間違いだろう。 それにしてもいい壁紙がない・・・いまだに秋というのも・・・ トランクの中の日本 拒絶された原爆展 原爆神話の五〇年 - すれ違う日本とアメリカ 一 夢 庵 風 流 日 記