|
テーマ:こころの旅(60)
カテゴリ:思索
お参り旅はよかった。
伊勢参りをして豊かな気持ちにはなれたし、確かに清澄なエネルギーに充電されたような気がするのだ。 日本古来の言葉-山紫水明だとか、大和心だとか、晴明だとか-いうものを、具体的なものとして感じられた。 けれどいったい何なのだろう? 神道はかつて日本を統べる指導原理であり、神国日本幻想の素材にちがいない。 伊勢神宮は今でも天皇家の祖神を祭る別格として天皇制を象徴するものでありつづけている。 だからただただありがたがる気にもなれない。 ある種の聖なるエネルギーが存在するというのはよくわかるし、世界中の聖地にはさまざま形でそれが存在しているだろうことも理解できる。 それが元から聖なる場所であったかどうかとは別に、何千年ものあいだ、数しれない人たちによって拝まれてきた、あるいは祭儀が執り行われてきたという事実が、ある種のエネルギーを宿らせるという側面もあるだろう。 だが、こうしたある種の聖性が、統治に、服従に、利用されてきたことも否めない事実なのである。 "なにごとのおはしますかはしらねども かたじけなさになみだこぼるる" と、伊勢において詠んだのは西行法師である。 涙こそこぼさなかったが、この感覚はよくわかる。 それが何であるか、うだうだ考えることを大和心はあっさりと拒否してきた。 神とはただただみやびなものだからだそうだ。 あーだこーだと言挙げするのはみやびなことではないらしい… だが、判断停止するつもりもない。 できるのは保留することぐらいだ。 どうやら次回につづきそうだ… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/06/14 01:05:37 AM
コメント(0) | コメントを書く |
|