神楽坂の不二家の店に張り紙が出た。この店はごおぅと車が行き交う外堀通りから坂をあがるとば口のところにあって、手前には東京メトロの暗い闇へ下りる階段がある。不二家の中で唯一、「ペコちゃん焼」なるものを、もう四十年も前から製造販売してきたところだ。いつのころからかわたしもときどき通りかかるとふらっと店内に入り、餡入りやクリーム入りなどのペコちゃんの焼いた顔を数個買って、ぱくぱく食べながら坂を毘沙門までのぼったりしていた。誰かの家を訪ねるときなどは、まとめて十個とか十五個とか買いもとめる。日本全国で売っているのはナニシロここだけだから、お土産ですと差し出すと先方はたいてい「へえ!」と反応する。あの「ミルキーの不二家」が、今川焼きのようなものも売っていると知って吃驚するわけだ。その表情が見たくてわざわざ立ち寄って求めてゆくなどということまではしなかったが、めづらしがられるのは気持ちがいいものだから、おなじような感情から東京の反対の隅からわざわざこの店までやってきて買って帰るという客も居ただろう。そのうちにペコちゃん焼は有名になって、最近ではウナギの寝床のような半地下のせまい店内に若い女性客の行列ができたりするまでになった。
張り出された「不二家飯田橋神楽坂店ご利用のお客様へ」と題したチラシはつぎのように書き出されてあった。
〈不二家本社がいのちを預かる食品メーカーとして、衛生に対する厳正さの不足や消費者軽視の不祥事を惹起し、お客様の皆様に多大なご迷惑をおかけしたこと、衷心よりお詫び申し上げます。当店で製造販売している「ペコちゃん焼」は、飯田橋神楽坂店のオリジナル商品として本社の原材料は一切使用せず、店内で製造販売してまいりましたが、不二家本体が社会的問題を引き起こした上は、不二家傘下のわたしたちの「ペコちゃん焼」も、製造販売を本日2007年1月15日より自粛することに決定しました〉
全文ざっと九百字ほどの文章には、「コンプライアンス(法令遵守)」「レゾンデートル(存在価値)」などといった横文字も散らばり、やがて〈断腸の思いで「ペコちゃん焼」の製造販売を自粛〉とあって、最後は〈…ふたたび皆様にお目見えする日まで閉店をさせていただきます〉と結ばれている。
その「レゾンデートル」のところでわたしはすこし可笑し味をおぼえ、「断腸の」箇所まで読んで来て、なぜだか吹き出してしまったのだった。神楽坂店主の必死な気持ちを忖度すれば、吹き出すのは申し訳ないわけだが、怒濤のごときマスメディアの不二家叩きには、すこし怖いところもあって、どこかなぜだか全体主義やファシズムの不気味な黒い影をかいま見る思いさえもしたのだった。そうしてやがて、不祥事を起こした芸能人がぺこり頭を下げて、あらためて正面を見たその顔が「ペコちゃん」に変じるという妙な絵柄がぽっとわが脳味噌の一隅に理由(わけ)もなく映じて、書かれたチラシのワープロ打ちの文字の背景に、世界は気候変動の、異常気象の、北半球は雪も降らない暖冬でさあ、という新春なのに、なんだかちょっと寒々とした風景さえ覗けたのであった。
そうしてもどって、やって来たその日の日経新聞夕刊を読めば、外資のゴールドマン・サックスが昨年末の12月30日に不二家の株を大量に買い付けに入って、上位三位だか二位の大株主になっていたことを知った。
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