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カテゴリ:腹の立つこと
イタリアに住む東洋人で、中国人でないのに、イタリア人に中国人だと頭から決め付けられていると感じたことがある人は少なくはないと思う。というか、多かれ少なかれ必ずあるのではないだろうか、中国人ということを前提に話をされたような体験。
私も少なからずある。 そもそもイタリア人が「中国人」あるいは「中国」と決め付けるときには誤解や無知、いい加減さ、傲慢が混在している。 ひとつは中国人とは何者かというのは認識していて、単純に中国人だろうと仮定して決め付ける。イタリアにいる大多数のアジア顔は中国人なので確率的に言って中国人だとみなされる。 特に私は化粧もしないし服も安いものばかりだし、客商売のクセしてむやみにニコニコ笑わないし腰が低くないので日本人に見えない。中国でも誰からも中国人と思われて必ず中国語で話しかけられたし。 その上イタリアではウェイトレス=移民という図式から中国人とみなされるという要因も加わる。 それと、カンポバッソのような田舎では実際に中国人以外は私と、私が知っている限りでは韓国人の留学生が2人だけというのが現状なのでしょうがない面もある。ここが特別なのでなく、観光地を除く南イタリアではどこも同じようなものだとも思う。 「まさか日本人などと言う希少な人種がこんなところにいるわけない」と思うのだろう。自分でさえ町を歩いていてアジア顔をみたら「あ、中国人」と心の中でつぶやいてしまうほど(笑) このパターンでは、「あなたの出身地は、北京?上海?」と聞いてくる人、ウチのレストランに来て私の顔を見て「このレストランは中華料理なんですか?」(てか、料理人見ろよ)と聞いてくる人がいた。 日本人だと言うと「あらゴメンナサイ、でも私たちには見分けが付かないから」と言い訳をする人がいる。見分けが付かないのはなにもイタリア人からだけでなくアジア人同士でも同じである(はっきり出身を物語る顔、格好ってのもあるが)。見分けられないと言う自覚があるならなぜ中国人と限定するのかということで、これは言い訳にならない。 もうひとつがやっかいだが中国人と他のアジア人の境界をはっきり認識していない人。つまり中国人と言う意味で「日本人」と言ったり、日本人と言いたいのに「中国人」と言ったりする。こういう人たちは言葉を使い分けることに重要な意味を見出さない。 間違いを正すと「どっちだって同じでしょ」とまでははっきり言わないが、遠まわしにほのめかしたり、そぶりを見せる。心の根底で「自分にとって重要じゃないから」あるいは「世界の中で重要な国々ではないから」分けてもしょうがないと思っている。この場合の世界と言うのは当然イタリアを中心とした何百年前の「世界」である。 これはたぶん日本でも、例えば中近東の人を見たら出稼ぎのイラン人と決め付けてしまうとかいうことは行われているだろうし、間違いを正しても「どうでもいいじゃないかあっちの人なんだから」と言う態度をとる人もきっといるだろう。そんな意見を直接見聞きしたことはないが。もちろんあるまじきことである。 このパターンで、tabacchiで切手を求めたときに、おじさんに「(笑って)中国行きの切手?」と言われて、はぁ?意味がわからないという顔をすると、あっちも「何でそんなことで怪訝な顔をするんだ」というような怪訝な顔をする。横にいた奥さんが私の不満の意味に気づいたのか「中国人なの?」と言うので「日本人です」と言ったら、おじさんは肩をすくめながら「なんにせよここからは遠い場所だろう」みたいなことを言った、という経験がある。 それから、最も多いのが、「東洋人」という意味で「中国人」という言葉を使うケース。中国と言えば東洋の代名詞なのだ。ある意味中華思想というべきか(笑)。 隣に住む私と同世代の大工は、私の弟が来てたとき、「なあおまえんちから中国人が出てきたんだけど!だれ?」と夫に言っていた。私が日本人であることは何度も言っている。 イタリア語では口語的に日常的に「東洋人」「アジア人」という言葉はあまり出てこなくて、なんでも「中国人」になってしまう傾向がある。「さっき中国人とすれ違ってさ~」みたいな、そういう場面で正確な出身国がわからないからと言って「東洋人とすれ違って」「アジア人と・・・」というと、きっとかしこまった教養人ぶったように不自然に聞こえるのだろう。そしてこのシチュエーションが観光地で、対象が観光客だと、たぶん今度は韓国人も中国人も「日本人」にされてしまうのだろう。 だからといってやはり私たち中国以外のアジア人としては、たとえそれがイタリア人にとっては学術的な小難しい言葉に聞こえるとしても、国籍がわかる以前は「アジア人」と言って欲しい。イタリア人がどれだけ一緒くたの遠い国に感じるとしても、日本人も韓国人も中国人ではないのだから。 それに例えば、ジプシー→ロム、黒人→アフリカ系、インディアン→アメリカ原住民と言う風に、小難しく耳慣れなく聞こえても、変えていかなければいけない言葉はあるではないか。 この、「中国」「中国以外のアジアの国」の混乱は、北よりも南イタリア、都会よりも田舎、若者よりもお年寄り、高学歴よりも低学歴の人たちに多いという傾向がある。「国際的ではない、文化的ではない人々」という当然の図式なのだが。 以前行っていた、外国人のための無償の語学学校のクラスメイトからもわかったことだが、イタリアに働きに来てる元ソビエト圏諸国の若い姉ちゃんも、亡命したイラン人のじいちゃんも、これに関しては大体イタリア人と同じ感覚を持っている。みなさん自国で結構な教育を受けた紳士淑女ですけどね。しかしルーマニア人はすごい親日で日本に行った事があったり日本語を習ったりして、同じヨーロッパでもえらく違いがある。それにラテンアメリカの人はさすがにはっきりした認識がある。 こんなとこに長く住んでると終いに自分が日本人なのか中国人なのかもわからなくなってしまいそうだ。インターネットがなくて日本語を読むことも話すことも遠ざかっていたらホントにそうなるに違いない。 もちろん田舎のイタリア人だってあやふやな認識の人ばかりでなく、一般的には日本というのはハイテク、お金持ち、よく働く国として認識されている。私が中国人でなく日本人だと分かると態度が変わるのを感じるときもある。それはそれでまた中国人への差別心が目の当たりになって憂うものだ。 あと、日本人といっても帰化した在日韓国・朝鮮人、アイヌ人、沖縄人がいて、そういう人の言うところの「日本人」のアイデンティティーはまた別のところにあるだろう。「中国人」と言われて「日本人です」と訂正するにも複雑な心境になるだろうと察する。 次回は自分の体験を語る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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