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カテゴリ:腹の立つこと
とはいっても南イタリアでは異人種への排他主義、レイシズムというのはあまり見られない。むしろ友好的だといわれる。他のヨーロッパ諸国に比べて、移民を送り出した歴史は長いものの、移民を受け入れた歴史は短いからもあるだろう。
確かに『中国人』自体が珍しいのか、この田舎では遠慮なく好奇の目で見られる。子供だとほんとに遠慮なくじーーーーっと観察される。まあたいがいの大人は見ないふりをして見るんだけど、たまに子供並みにじーっと見る人も。 この町自体高地にあって、「山の民」気質だし、周辺のさらに山奥からこの町に出てきている人もいるので、きっとテレビでしか『中国人』を見たことがない人もいると思う。エイリアン扱いだ。 まあ外国人が珍しいのは日本でも同じで、都会でも子供だと夫をじろじろ見てくる。それが田舎なら、しかももし対象がアフリカ系なら、エイリアン扱いもはなはだしいだろう。ま、テレビでしか見たことなかったら、そりゃ、見るわな。イタリア人も私のこと見るわな。だからそれはいいんだけど。 で、反感を感じたことはないが、珍しさでか、からかわれることはある。 「ニーハオ」「チンチーン(中国・チーナが変形した?)」「アチョー」などという言葉を通りすがりに投げかけられるのだ。 通りすがりと言うか通り過ぎた後に後ろでニヤニヤしながら言われることが多いからむかつく。たいがいは子供か若者だ。 ずっと前に市の主催する無償の外国人のための語学教室に行っていたことがあった。教室は結局無償なだけあって教師が素人同然で、教師の人柄もクラスメイトもいまいちだったので徐々に行かなくなったが。 それは放課後の小学校の教室を利用して行われるものだったが、運悪く子供たちの団体と出会うと時々「チンチンチン」とはやされるので、びくびくしながら今日は出会わないようにと祈っていってた。そのときのトラウマ?で「チンチーン!」(乾杯!)と耳にしただけでもびくっとしてまう(ただでさえ日本語でNGワードなのに(笑))。 また、大人のついていない子供の団体を見てもちょっとこそこそしてしまう。 それよりももっと前、カンポバッソの近くの小さな町に住んでいたとき、一人の子供が私を見るなり「アッチネーズィナ」と言い始めて他の子供たちも加わって6,7人で大合唱になったことがある。非常に不快な経験だった。「アッチネーズィナ」とはCinesinaチネズィーナを外国人風の変なアクセントを真似て作り出した言葉か。 CinesinaチネズィーナというのはCinese中国人を「縮小・親愛の接尾辞」で変化させた言葉で、「中国人の女の子」を感じよく縮小したような言葉。そう、変化のルールでは「感じのよい」言い方なのだが私にとっては不快極まりない言葉だ。 ローカルテレビでもこの言葉を使っているのを聞いたことがある。公共の場ではそぐわない言葉だと思う。「中国人の女の子」ならragazza cineseという言葉で普通に表現できるのに、なぜこんな縮小形みたいなものを使わなければならないのか。giapponesinaでも他のどんな国の名でも同じく違和感はある。(そもそも自分が「女の子」じゃないという違和感もあるけど)。 「縮小・親愛の接尾辞」というのは日本語で言うと普通名詞の前に「小」が付いたり(「小鳥」「小道」みたいな)するものだけど、どっちかというとそれに加えて名前を「ちゃん」づけで呼んだりするのに似た使い方のイメージが強い。だから全然失礼ではないらしいんだけど・・・。 違和感を感じられるほどイタリア語に精通しているわけではないどころか、まだ習いたてのレベルどまりなので、抗議する根拠がないけど。 日本語でもとても違和感のある表現があって「韓国人」と普通に言えばいいところを、丁寧ぶりたいときに「韓国人の方」とか「韓国の方」という言い方をする人がいる。「韓国人の方」は日本語としても思い切り間違っていて、何が言いたいかわからないところにこの言葉の使い手の差別心から来る動揺がよく現れている。「韓国の方」は一見韓国人を丁寧に言う言葉であり問題ないように思えるのだが、ちょっと批判的な在日韓国人に言わせたら「普通に『韓国人』と言う言葉があるのになぜわざわざ『韓国の方』になるのか?」という違和感があるそうだ。 イタリアでの経験の話に戻ろう。 通りすがりにはやされるパターンで、いい気分になったこともあった。 その日は夫が風邪を引いていて、私は徒歩で買い物に出かけた。いつもは通らない高校の前を通ったとき、私の前を歩いているおじさんを、女子生徒たちが、よほど暇つぶしが欲しかったのか「おじさーん、こっち向いてー」とからかっていたのだ。 普通のおじさんが標的になるのだから、次に私を見つけた彼女らの喜びは言うまでもない(笑) たちまち「ニーハオ」の合唱になった。悪意むき出しのパターンならいつもは無視するのだが、この場合は後ろでニヤニヤ言ってるわけでなく、そう悪意も感じなかったし、「ニーハオ」と挨拶したがっているので私も「コンニチワ」と返してやった。するとあちらも喜んで「コニチワー」と日本語に切り替えて、それどころか「アリガトー」「サヨナラ」と他の日本語まで出てくるではないか。 言っておくがこの町で普通の大人と交流してわかるのは、これらの日本語を知っている人も稀なら、一言ぐらい聞いたことがあってもそれを日本語と認識している人も稀なのだ。 だからこれはすごいことなのだ。彼女らはしっかりと認識して使っていたのだから。いまどきの高校生となると国際的教養?を身につけているのだな、と感心した。 まあこれは特別な体験であり、普通は一人で行動しているとろくなことがないのでなるべく夫と一緒に外出する。夫と一緒でも前述の「アッチネーズィナ」合唱は起こったし、ちょっと離れていると夫のいない間に不快なことが起こったりするので油断できないが。ちなみにちょい込み気味のバールとか商店では夫にぴったりくっついていないと「ハイ次の人」と、別に扱われてしまうので注意である(笑)。これはイタリア人と『中国人』が一緒に行動してるわけないとの思い込みだ。 まあ夫と一緒でもこの調子だから『中国人』の女が一人で行動しているとからかいの標的になりやすいし、対処に困るような不快なことはたまにおきる。私はそういうことに明るく機転を利かせて対応したりする性格ではけしてないので対処に困るわけだ。そういうことがしょっちゅうおきるわけではないが、「アッチネーズィナ」みたいなことは1回でも怖気ずくに充分である。 長くなったから次回へ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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