昨日の続きです。
ルカによる福音書11章1~13節
1イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、
「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と言った。
2そこで、イエスは言われた。「祈るときは、こう言いなさい。
『父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。
3私たちに必要な糧を毎日与えてください。
4私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。
私たちを誘惑に遭わせないでください。』」
YMさんから頂いたコメントの中に『神様と父は近い」というのがありました。私も『神様と父」を考えたとき、ある一人の人の父親像を思い出しました。以前ここでも紹介した山浦玄嗣氏のものです。彼は言います。
父親は一家の主である。その双肩にはまばゆい光が輝く。家族の長としての責任をしっかりと担い、堂々と力強く一族の行く手を切りひらき、次の世代を育てる。
これが父親の栄光であり、誇りである。
その足は巨木のごとく大地を踏まえ、その腹は大海のごとくすべてを飲み込み、その胸は火山のように熱き思いを宿し、その肩は大岩のごとく、その頭は山峰のごとくに大空にそそり立ち、太陽をも支える力に満ちた双の腕に妻と幼子を守る。(「父さんの宝物」3P)
彼も実の父とは1年生の時に死に別れています。母は気仙の貧しい村の医師として働きながら一人で、玄嗣少年を頭とする幼い4人の子どもたちを育てました。
その時、母を支えたのはカトリックの信仰でした。
この玄嗣さんの『父親像」まぎれもなく、聖書の中のイエスが語る「父の姿」ではないでしょうか?そう思ったとたんに、「御名が崇められますように」と祈りたくなる、父の姿がはっきりしてきました。
神であるから、讃えたり、素晴らしいと崇めたりしているのではない。
「ねえ、ねえ、うちの父さんて、こんなに面白い人なんだよ。
こんなに素敵なことをしようとしてくれているんだ。
こんなに僕たちのことを大切にしてくれているんだよ」
と子どもたちが言いたくなるほど、子どもから尊敬され愛されている父さん。
主の祈りは「父さん、万歳!!」という喜びの声と「あなたの言うことなら何事でも従います』という従順を宣誓するところから始まっているのですね。
「御国」は父さんの理想の社会(国)です。そこで暮らすことができますように、という実現への願いと自分たちがそれに向かって活動していくぞ、という決意表明があります。
これが「子どもの側からの祈り」ということになれば、このような思いを持つことができる私たちでいられますように導いてください、ということになります。
とても力強い言葉だと思います。