戸田造船郷土資料博物館 2018.12
吉村昭の落日の宴で、プチャーチンと川路聖謨の間では、厳しい関係の中でも恭慶を尽すとの書簡を結び、友情もとあった。 吉村昭が描く、下田入港から、津波、ディアナ号損傷、戸田回航、嵐、救出、転覆、造船、ヘダ号出航、数百人の残置乗員の米傭船での帰国、これらの事績は、劇的な魅力に溢れたものだった。 この事績は、波乱に満ちた経過の中でそれぞれの立場に忠実な人々が、話し合いで乗り越え、協働して生還する見事な外交史と思う。役人、民衆、職人、武官、水兵、技官らが、優れた指導者のもと、普通の人々でも成しえる偉業を描いたよう。 宮島村の沖に沈んだディアナ号の錨と、どこからか現れた海外風の猫に、民レベルの外交がなされたと思った。 修理港の候補として、幕府案は、下田、妻良、子浦を候補として臨んで、更には、野比、長沢、久里浜を特例として譲歩案を提示したとあったが、ロシアが修理場適地見聞した結果、険岨な後背をもつ戸田村の湾と決したとあった。 クリミアで英仏とロシアが開戦し、英仏が対露戦用の寄港地を日本に求めている中で、合点のゆく地と思う。高見から湾を見渡すと、荒波から身を守るような姿に見えた。 ロシア人一行もこの姿を見て、和して過ごしたのであろうか。川路聖謨が上の方にでているが、左下の方に通詞として、海の祭礼で描かれた森山栄之助改め多吉郎がでている。