はるかなるイタリア 15 (3回目のイタリア-1)
世間様ではリストラなどというめにあって厳しい人生を余儀なくされている方達もたくさんおられるようで、日本の社会もどうなるのかと思ってしまいますが、僕の場合はお陰さまで極楽トンボといいましょうか、機嫌よく生きております。 その極楽トンボのイタリア旅行記、3回目の旅の話を始めたいと思います。85年当時働いていたイタリアレストランからのツアーが好評で、また行きたいという人もいて翌年86年にまたイタリアへツアーを組んで出かける事となりました。人数は前回と同じ位で20人ちょっとだったと思いますが、この旅行は幸い旅の間に書いていたメモの手帳が残っていて、割とこまかい所までメモを読み返しながら書いていけそうです。さて イタリア着が86年11月27日朝。前回より体調は良く云々とメモにはありますが、伊丹・アンカレッジ・コペンハーゲンと乗り継いでローマに入りました。僕の高校の時の先生K氏がこの時、FAO(国連食糧農業機関)のローマ本部で働いておられ、日本から前もって連絡をしていてローマで会うことになっていたので、飛行場からすぐ電話をしましたが不在。彼の秘書らしきお姉さんと話しましが、電話での会話はむつかしい。イタリア語と英語をゴチャマゼにして何とかホテルの名前と電話番号を伝えておきました。ローマのホテルはカステル・サンタンジェロに程近い「ヴィスコンティ・パレス」でアメリカンスタイルのホテルでした。そうそうこの時付いてくれた日本人の現地ガイドのお嬢さんF子さん。この人は前年85年のツアーに付いてくれた人で、ずいぶんと有能かつ好感度が高くなかなかに魅力的な人だったので、日本でツアーの旅程を組む時点で現地ガイドは彼女でとオファーを出してまた付いてもらったお嬢さんです。(僕個人の好みではなく全員の希望でですよ)彼女は前回のツアーでは、僕が何かと幹事役のような体で動いていたので、てっきり日本からの添乗員だと旅の途中まで思っていたそうです。空港からリムジンバスでまた彼女のガイドでローマ市内へ。昼前にホテルに入り、みんな早速ローマの街へぶらり観光に出かけて、夕方には一旦ホテルに集まって、毎度オオキニのレストラン「チェレスティーナ」へみんなで行き夕食を摂りました。夜ホテルへ戻るとFAOのK氏から電話が入り(よかった秘書のお姉さんに何とか話は通じていた)29日の朝に会うことになりました。この日(27日)のメモによると、現金を20万日本円で持っています。そのうち3万だけリラに両替してますが、これは多分飛行場でしてますね。飛行場はレートが悪く余りしたくないので3万だけしたと思います。ちなみに当時のレートで 3万円=248000リラ 日本円を8.2倍したほどの数字になってます。 昼のローマ市内のバールで飲んだビ-ル代が、2000リラと1500リラの2回。ホテルからチェレスティーナまでのタクシー代が往復4000リラ、これは4人で乗っての割り勘の一人分だから16000リラとして、片道1,000円チョイくらいですか。チェレスティーナの食事が一人4万リラで、ざっと5000円。まあこんなところですね金額としては。旅に出ると、どうも性格なのか単なるケチなのか、お金のことはいつもメモしてしまいます、後で見るとその時の事を思い出すいい材料にはなりますが・・・ということで旅の1日目はおしまい、今回は使ったお金の事を色々と書いてしまいそうです。 つづく