細かい点に注意すること
◆前々回のブログで、精密コードを聞き取るには、「落ち着いて聞くこと」「細かい点に注意すること」「分析的に理解すること」の3点が必要と書きましたが、今回はそのうちの2点目「細かい点に注意すること」についてのお話です。◆高校受験においては、国語力の有る無しが、全体(国語を含めた5科目)の偏差値の伸びに大きく影響します。端的に言えば、国語力があれば伸びるし、なければ伸びづらいということです。今年の中3クラスや2年前(2014年度)の中3クラスにもその傾向は顕著で、この両学年の偏差値が伸び悩んだ最大の理由が「国語力の弱さ」です(※)。※今年の中3クラス国語偏差値は平均で40後半~50前半あたりで推移しており、これが国語の点数を下げているだけでなく、他の4教科の偏差値まで下げています。ただ、一概に「国語力が弱い」と言いましても、その要因は様々です。たとえば、今回のテーマ「細かい点に注意が向かない」というのも、国語力向上を阻む要因となります。◆When my father came home, I was watching TV.ある中2用テキストに載っていた英文です。「父が帰宅した時、私はテレビを見ていました」という意味です。この例文を当塾の中3クラスや中2クラスで訳させると、経験則ですが3~4割の生徒が 「父は帰宅したとき、私はテレビを見ていました」と訳してしまいます。細かい部分かもしれませんが、上記の黄色部分の訳は日本語としては不自然です。「は」を使うか「が」を使うかで、日本語の意味は大きく変わってしまいます。日本語を勉強している外国人学習者の方にとって、この辺りの助詞のニュアンスは大変難しいそうですが、今年の当塾の塾生もこの辺りの日本語感覚を持っていない子が非常に多く、それが彼らの言語生活を苦しめています。そして、この助詞・助動詞感覚の欠如が、1 思考力の弱さ2 誤読の多さに結びついていきます。<1 「助詞・助動詞感覚の欠如 → 思考力の弱さ」 について>助詞に関しては、5歳から6歳くらいの段階で自然に身につけると言われており、この段階を過ぎてしまった場合は外国人学習者と同じように一つ一つ暗記していくしかありません。ただ、ご家庭での会話できちんと助詞と助動詞を使うことによって、今からでも「ある程度まで」は挽回可能です。百ます計算を生み出した岸本裕史氏は、『見える学力、見えない学力』の中で「物事を正確に認知したり、微妙に表現するときには、助詞や助動詞は欠かせないことばです。助詞、助動詞が家庭の会話でも軽視されることなく、正しく使われておれば、それは物事を厳密に考えていく力にも転移していくのです。」「思考を組み立てる場合のかぎになることばを駆使できるまでになってるかどうかは、家庭で交わされることばづかいによって、ほぼ決まってきます。一夜づけで身につくものではありません。何ヶ月も何年もかかって身につけていくのです。子どもの思考力は、ゆたかな言語環境の中で、その素地が培われます。」と述べています。助詞や助動詞などの細かい点にまで注意を払うことは、日本語表現力を研ぎ澄ますだけでなく、思考力の養成にも結びつくということです。そして、その養成のカギはご家庭の会話にあるということです。<2 「助詞・助動詞感覚の欠如 → 誤読の多さ」 について>もう1つ。助詞・助動詞感覚の欠如は、誤読にも結びつきます。◆中1、中2クラスでは、毎日の勉強開始時に本を読むように指導しています。http://plaza.rakuten.co.jp/jukucaravel/diary/201612070001/のブログで、学力を上げるという観点からすると、小説は効果的ではありませんとは書きましたが、この小説とはライトノベルや推理小説などのことであり、いわゆる文学作品については、少しずつ触れていった方が良いと思います。◆ところで、昨日の中2クラスで、「日本でノーベル文学賞を取った作家2人を挙げてください」と聞いたところ、誰も答えられませんでした。それほど現在の中学生は文学作品とは縁の無い生活をしているということです。文学作品は、確かに宮部みゆき、東野圭吾、池井戸潤などに比べると面白くないかもしれませんが、文学作品に触れることで日本語表現力は増していきますし、何よりこうした作品は感受性の鋭い中学、高校時代に読んでおくべきです。さて、ノーベル文学賞受賞者の一人である川端康成の代表作『伊豆の踊子』に次のような文章があります。踊子はやはり脣(くちびる)をきっと閉じたまま一方を見つめていた。私が縄梯子(なわばしご)に捉まろうとして振り返った時、さよならを言おうとしたが、それも止して、もう一ぺんただうなずいて見せた。上の文章の下線部「さよならを言おうとした」のが誰だか分かるでしょうか。なお、上記の部分での登場人物は「私」と「踊子」の2名のみです。答えは「踊子」です。講談社文芸文庫『一草一花』の中で、川端康成自身が「踊子に決まっているではないか」と書いています。更に続けて、川端康成は「この場の私と踊子の様子からしても、踊子であるのは明らかではないか。私か踊子かと疑ったり迷ったりするのは、読みが足りないのではなかろうか。」と述べています。これはもちろん、川端康成本人がおっしゃるように文脈から判断できますし、本来は文脈から読み取るのが筋でしょう。ただ、このブログの冒頭に書いた When my father came home, I was watching TV.「父が帰宅した時、私はテレビを見ていました」の英文を思い出してみてください。ここで助詞の感覚が生きてくるのです。中2、中3生は分かると思いますが、「父が帰宅した時」の部分を従属節と言います。また、「私はテレビを見ていました」の部分を主節と言います。従属節には、原則「が」を使い、主節には「は」を用いるのが日本語として自然な場合が多い(もちろん絶対ではありません)ということを理解していれば、川端康成の文章も「私が・・・・・・振り返った時、」までが従属節であり、したがって「が」が使われていると分かります。すると、その後ろに続く「さよならを言おうとしたが」の部分から主節になっており、主語の「踊子は」が省略されていると分かります。(日本語は主語の省略が頻繁に起こります)こうした「細部を読み取る力」も国語力の1つです。国語力の弱い子は、細部にまで気が回りません。というより、細部なんてどうでも良いと考えている子がほとんどです。まずはその姿勢・意識を改善しないことには国語力はいつまで経っても上がることはありません。