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カテゴリ:人生・よのなか
部屋に数匹のサルを入れる。 天井にはバナナが吊るされていて、部屋の中央にははしごが設置されている。 しかしバナナを取ろうとサルがはしごを登ろうとすると、すべてのサルに氷水が降り注ぐ仕掛けになっている。 氷水をかけられたくないサルたちは、誰かがはしごを登ろうとすると皆で攻撃するようになる。 結果的に、どのサルもはしごを登ろうとしなくなる。 次に、元々いたサルうちの1匹を、新しいサルと置き換える。 すぐにバナナとはしごに気づいた新参者ザルは、どうして他のサルたちがバナナを取りにいかないのか疑問に思いつつ、 ハシゴを登ろうとする。 すると、他のサルたちはその新参者のサルをボコボコにし始める。 新参者ザルは自分が何故ボコボコにされたのか皆目分からず、とにかくはしごを登るのを断念する。 次に、元々いたサルどものうち、また別の1匹を新しいサルに置き換える。 やっぱり新参サルはハシゴを登ろうとしてほかのサルどもにボコボコにされる。 前にボコボコにされていた先の新参者ザルも、他の皆がやっているので、新しい新参者のボコボコに加担する。 しかし、何故はしごに登ろうとするサルが攻撃されるのかは依然としてまったく分かっていない。 そのように、もともといたサルどもを1匹ずつ置き換えていって、最初からいたサルがまったく残っていない状態になる。つまり、部屋の中のすべてのサルは氷水を浴びせられる経験をまったくしていない。しかし、依然としてはしごに登ろうとするサルはおらず、はしごに登ろうとする新参者ザルは狂ったようにボコボコにされ続ける。 ----- 「集合知」という概念がある。多数の個人の推測を集めると、驚くほど正確な平均回答が導き出されるという統計的現象である。この現象は何十年も前から文献で言及されており、古くは100年以上も前、イギリスの人類学者が、見本市の来場者たちを集めて雄牛の体重を推察させたところ、その平均回答が正確な体重を言い当てていた事例を紹介している。 数ヶ月前、チューリッヒ工科大学で学生100数十名を被験者に、自力で答えを推測するグループと、他の被験者が推測した回答を参照できるグループとに分け、「スイスの人口密度、イタリアとの国境線の長さ、チューリッヒに入ってくる移民の数及び2006年の犯罪件数」を回答させるという実験を行った。質問は全部で5回行なわれ、それぞれ、正答に近い場合に報酬 を与えるようにした。すると、面白いことに、テストが進むにつれ、自力で答えを考えた被験者グループのほうが平均回答の精度が高くなり、他者の答えに影響された方の被験者グループは、回答の精度がかえって低くなったという。 要するに、「みんなの意見」に影響されると、集合知が発揮されないということのようだ。誰もが自力で考えていれば、人々の回答は多様になり、範囲は拡がる。それが結果的に「驚くほど正確な平均値」につながる。しかし、皆がほかの人たちの回答を意識してしまうと、その多様性が失われ範囲が狭まり、かつ他人の回答に合わせて調整した自分の回答に確信を強める結果、その平均的回答は驚くほど正解から外れてしまうらしい。 このサルの実験やチューリヒ工科大の実験に基づくと、最近日本で流行っているらしい「空気を読む」という同調圧力は、日本社会を愚かな方向に導いているような気がしてくる。理由はよく分からないのに、「ほかの人がみんなそうしている」という理由で、誰もが「何となくおかしいな」と思いながらも、周りに従ってしまう。その結果、誰もが「はしごを使ってバナナを取る」というごく当たり前の行動をとらなくなってしまう。学校にせよ企業にせよ、多くの人がいろんな場面でこれに該当するような経験をしているのではないか。 かつて心理学者の岸田秀は「集団はつねに、その中の賢明な個人よりはもちろん、その平均的な個人よりも愚かである」と喝破し、人間が集団を作ると不可避的に愚かになってしまうことを指摘した。 むかし「クイズ100人に聞きました」というクイズ番組があったが、あれが面白かったのは「いちばん回答数の多かった回答」を「正解」としていた点だ。オーストラリアの首都は「キャンベラ」が正解だが、このクイズ番組ではシドニーと回答する人間が大多数であればそれが「正解」になる。だから、「何が本当に正しいか」ではなく「大多数の人間がどう考えるか」をつねに考えられなければクイズには勝ち抜けない。 「空気を読む」という習慣は、いわばこの「クイズ100人に聞きました」を日常的にやっているようなものだと思う。本来なら正解を導く能力や知識を持っているにも関わらず、集団に同調するためにあえて不合理や不正解に合わせるような習慣が身についてしまっているということだ。…というか、もはや「本当に正しいのは何か」ということになんて関心がなく(笑)、ひたすら「空気(≒数、周囲、和、組織の論理et.)が正義」というのが行動原理になってしまっているのかも知れない。 多様な考えを持つ個々人が、「何が本当に正しいのか」を周りをあてにせずに自力で考える。集合知が有効に機能する社会には、これが必要だ。だから「空気読め」社会は必然的に集合愚へと向かう。フクシマ原発などへの日本人の反応を見ると、オレは日本の行く末をちょっとだけ危惧せざるをえない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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