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ご承知のように、私は30年間「かむなからの神々」と
お付き合いをさせていただいています。 よって良い意味でも悪い意味でも、神様情報を無視できない 特殊な思考形態を保有してしまっています。 科学というのは人間の側からの思考であると言えます。 ところが「かむなからの神々」の言うことは、 神の側からの思考と捉えなくてはなりません。 神の言葉をそのまま人間尺度で理解しようとすることは せっかく教えていただいたことを、正しく理解せずに終わらせてしまう 危険をはらんでいると言わざるを得ません。 それゆえ私は、もし自分が神の立場であったのなら どう考えて行ったかを考えるようになってしまったのかもしれません。 つまり見る立場を変えてみるのです。 これを 『視座』を変えると言います。 人間は長い歴史の中で、視座を変える努力をしてきたようです。 「真空」という概念についても歴史がありました。 真空の存在については古代ギリシア時代から、論争が繰り広げられてきました。 デモクリトスは、万物の根源である粒子アトムが、 無限の空虚な空間であるケノンの中で運動しているとして、 真空の存在を考えていました、 が、アリストテレスは「自然は真空を嫌う」と述べ、 空間は必ず何らかの物質が充満しているとして、真空の存在を認めませんでした。 つまりデモクリトスは、無限の空虚な空間、すなわち『なきもの』という 『存在』が「ある」と認識していたのであり アリストテレスは、「なにもない」という「存在」はありえないと考えたのです。 この両者の世界観の違いは、視座が違うと考えれば 両方とも、それぞれに納得のいく考え方であると思いますよね。 {真空」という概念。 これ4が定着したのは、なんとやっと17世紀にはいってからでした。 物質といわれる粒子がひとつもない空間「真空」 しかしその虚空である真空の世界が、何かで埋め尽くされているという 「量子論」の出現が、またまた私たちの視座を変えなくてはならないことになります。 「ある」と「ない」がころころ逆転しますね。 視座を変えれば、正解は両方ともにあるのですからやっかいだなあ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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