がんばって生きよう~命のバトン
年の暮れですが、年末年始も仕事です。皆さん、良い年をお過ごしください。 さて、今年はいろいろと辛いことも皆さん、多かったでしょうし、いじめの問題も多かったですよね。みんな、頑張っている、頑張って生きようよ。 君を必要としてくれる人は必ずいるよ。 これを糧に、来年も頑張っていこう。【以下、危険物。人前で見ないでください。】FLASH動画「WALKING TOUR」 ・・・例えあなたのそばにいなくても。FLASH動画「「ありがとう」って言いそびれたヤツいる?」心寄せて:子を亡くすいたみ/5歳 命のバトン 【29日・毎日新聞、朝刊】 ◇「が、ん、ばっ、て、ね」 5歳の伝言--わが人生の充実誓う 東京都に住む吉田和子さん(78)と橋本三恵さん(60)=いずれも仮名=は15年ほど前、子どもを亡くした親たちが集まる「ちいさな風の会」で、出会った。 「花が咲いても、チョウが飛んでもしゃくにさわる。すべてが憎かった」。橋本さんの率直な物言いに、吉田さんは「私も同じ」と微苦笑した。息子を失ってから、初めての笑顔だった。 吉田さんの二男は83年7月、25歳の時、急性膵臓(すいぞう)壊死(えし)で他界した。橋本さんは84年1月、小学4年生の長男を失った。原因不明の急死だった。 その後の2人の胸中には、悲しみと怒りしかなかった。「私だけなんでこうなるのか。先祖のこともきちんとしてきたのにと思うと、墓をけ飛ばしたかった」(吉田さん)「何を食べてもおいしくなく、砂をかむようだった」(橋本さん) 2人を救ったのが「ちいさな風の会」だった。現・山梨英和大教授の若林一美さんが、新聞で死に関する連載をしたのをきっかけに、88年にできた。各地で年間約20回の会合を開き、文集を年2回発行する。2人は思いを言葉や文字で打ち明けた。「会と出会えなかったらどうなっていたか……」と、共に振り返る。 今も、息子を思わない日はない。吉田さんは、二男の部屋を23年間そのままにしている。橋本さん宅の玄関には長男の運動靴がある。 吉田さんは「心のずっと奥に重いものを背負って、どうすることもできない。死ぬまで持って行くんです」と話す。 ◇ 「賢太郎は、ずーっと家族やけんね!」 02年12月27日未明。北九州市内の病院で、兄が叫んだ。父母と兄、姉に抱かれて、大塚賢太郎君は逝った。5歳。脳腫瘍(しゅよう)だった。兄と姉はその夜、紙や箱で「賢太郎ロボット」を作った。 「すべてがセピア色に見えた。目の前に膜があるようだった」と、母の美佐代さん(41)。賢太郎君が過ごした部屋に閉じこもり、しばらくは「賢太郎のところに行きたい」と思い詰めた。外出できるようになると、子どもを亡くした家族の集まりに出かけた。少しずつ気持ちを立て直し、仕事も始めた。 そして3年が過ぎた正月。賢太郎君の闘病中に書いた日記を、初めて開いた。ノート4冊に残る半年間の記録--。 最初は涙が出るばかりだったが、読み進むと、勇気がわいてきた。賢太郎君は病状が進み、全身が動かなくなっていく時も泣き言をいわず、「絶対頑張る」と言った。当時の自分の写真をみると、落ち込む表情は一枚もなかった。「賢太郎は生きている。この中で生きている」と思えた。 亡くなる2日前、美佐代さんは「何かお願いごとある?」と聞いた。賢太郎君は絞り出すように言った。 「が、ん、ばっ、て、ね」。これが最後の言葉だった。 「だから今、私は賢太郎の命の延長線上に生きています。賢太郎から、命のバトンを受け取ったんです。この命を充実させることなら、私にもできるかもしれない。」 27日、賢太郎君の4回目の命日。テーブルにはいつものように5人分の椅子と食事が並んだ。 ◇ 家族を失う悲しみは、時間とともに消えてしまうものではない。そして、周囲の対応が、残された人の立ち直りの行方を左右することが少なくない。グリーフケアの大切さは、医療現場だけで問われているのではない--そう実感した3カ月の取材だった。(この企画は板垣博之が担当しました)