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カテゴリ:心理学
私はこうして「ゆずりやすい体質」を変えた
分裂病についての本を読んでいて、分裂病患者というものが家族の「いけにえ」だというような説明のところまできて、私は「いけにえ」という言葉に目がくぎづけになってしまったことがある。 たしかに「みんなと仲良く」ということの「いけにえ」になる人というのがいる。だからこそ分裂病患者にしろ、うつ病患者にしろ、小さいころは手のかからないよい子、よく気がつくよい子であるのだろう。 「みんな仲よく」するために自らの甘えをよくないこととして排除したり、甘えそのものを知らないまま育つのである。そして他方で、自分の自己的欲求のままに振舞う人というのがいる。 甘えをよくないこととして自らの中から排除する人、あるいは排除することを要求される人だって、「それじゃ僕はどうなるんだ」との心の底で叫んでいるのである。その叫びを周囲の人間はだれ一人として聞こうとしない。 「家族だから」「仲間だから」仲よくするようにというのは、いつもゆずることを暗黙のうちに求められてきた人にとっては、呪いの言葉でしかない。 私の悲痛な叫びを踏みにじって、「姉弟じゃないの」と言って姉の病的エゴイズムを通した時の母の顔は、おそらく死ぬまで忘れることはできないだろう。私にとっては自殺できるなら自殺したいほど痛ましいつらいことでも、「姉弟じゃないの」と私をにらみつけて姉のわがままを通した母の顔は、私にとってもはや母なるもののイメージとはまったく異なるものであった。 私が実際の心の底の自分の怒りに気づきはじめ、すべてをゆずるということをしなくなり始めたころ、親はヒステリーのごとく私を「姉弟じゃないの」と責めたてた。おそらくどんなことでも決してノーとは言わない「おとなしい」息子が、ノーと言いだしたことは、一家にとって驚き以外のなにものでもなかったのである。 私の忍従を当然のこととして成り立っていた家の中は、がたつきはじめた。私はすでに中学生、高校生の年齢ではなかったが、家庭内暴力というのはそのようなプロセスでおきるのだろうな、と理解できた。 おとなしい奴隷があたり前のようになっていたのが、他の家族の成員と同じようなことを言いだしたのであるから、家族の驚きは大変なものであった。 私のものは皆のもの、皆のものは皆のものというのは、あたり前のルールであった。それが命令に対してノーと言いだしたのであるから、奴隷の反乱なのである。 父が鬼のようになって「刑務所にいけ! 精神病院にいけ!」と私にどなった時、私はこの家で自分は奴隷でしかなかったことを確認した。 どんなにほしいものがあっても、どんなにやりたいことがあっても、他の家族に喜んでゆずり、しかも耐え忍んでいるなどということをチラッとでも思うことは禁じられた。 「僕もほしい」と言えばケンカになる。そしてケンカになれば「姉弟じゃないの」と私はおこられる。 ゆずったあとの心の底で「それじゃ、僕はどうなる」と何千回、何万回叫んだかわからない。しかし「くやしさ」は決して意識してはいけなかった。私は、自分の意志と願望で自分の損な役割を選んでいると思うことを強制された。そしていつもニコニコ素直なよい子であった。しかし怒りを自分に向ける結果として、抑うつ状態に襲われてくるのは当然である。それで「いつも元気であること」を要求されたので、元気なふりをした。 そして元気なふりもできなくなると、親の前にいって、「元気でなくてすみません」と言って頭を下げた。しかし人間がいかに頑張っても限度がある。やがて幻覚があらわれだした。 ある夜、家の玄関前にいくと、人が立っている。怖くなって逃げようとした。しかし人は立っていなかった。そんなことがあってそれを親に話すと、父親は、「カーンゼンにノイローゼだよ」と、「完全」を強調した。 そのような環境で育った私にしてみれば、「仲よくしてくれ」という言葉は、「すまんが君、心理的に病気になってくれ」というのと同じ意味なのである。 社会人になってからのことである。私はある人間関係のトラブルに巻きこまれた。そしてそれはうまく解決した。ひとくちに言えば、ハッピーエンドであったといっていいだろう。その頃には、私も一方的にゆずることだけで生きてはいなかった。 そのハッピーエンドで関係者は飲んだ。その飲んだ帰り、私の尊敬する上司に、「まあ、仲よくやってくれよ」と言われた時、背筋がゾッとした。 もちろん頭の中ではわかっている。頭ではわかっているのだけれど、自分の理性とはまったく別なところで、その言葉を聞いて、昔の不快な経験を再経験してしまったのである。 仲よくすること、それもゆずることで仲よくしなければならないことが、子供心にどれだけつらいかということがわかっていたら、人はそんな仲よくすることを強制しないであろう。たしかに言葉だけとれば、仲のよいことはいいことで、反論のしようがない。 しかしそれには条件がある。正義とか公平とかがゆきわたっている関係において、仲のよいことはよいことなのである。支配や搾取が当然のこととされている関係において、仲のよいことは搾取の道具でしかない。 ごくごく単純に考えたって、お人よしと病的エゴイストとが仲がよければどうなるか、だれでもわかるのではないだろうか。美徳とか規範とかいうものは、弱いものを搾取するときに使われるということを忘れてはならない。
【「くやしさ」の真理】加藤諦三著/三笠書房 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 13, 2023 06:06:10 AM
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