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February 22, 2024
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カテゴリ:書評

没後30年を迎えた松本清張を読む

立教大学名誉教授  藤井 淑禎

 

今年で没後30年を迎えた松本清張(一九〇九~九二)は、今でこそ江戸川乱歩と並んで日本ミステリーの二大巨人と目されているが、当初は歴史小説から娯楽小説、純文学小説と何でもこなすマルチプレイヤーだった。乱歩がそうした清張を「文壇作家」(=推理作家ではなく「ふつうの小説」を書く作家)の仲間に入れていたことは有名だが、もちろんそれはまだ清張が『点と線』(昭和三二年)を書く前のことであった。

つまり昭和二六年のデビューから『点と線』迄の時期を清張の文壇作家時代と呼ぶことができるわけだが、その時期の代表作が『張り込み』(昭和三〇年)である。強盗犯の男が昔の恋人の嫁ぎ先に立ち回るのではないかと、刑事が家の前の宿の二階から張り込みをする話だ。予想通り男は現れ、二人は山の中の温泉宿に逃げ込む。結局男は逮捕され、女は帰宅させられるが、刑事には女のつかのまの解放感が感じ取られたとオチがつく。

緊迫感に飛んでいるがもちろん推理小説ではなく、といって単なる娯楽でも純文学でもない形で、男尊女卑の時代を取り巻く厳しい現実が描かれている。

『点と線』以降、推理作家として飛躍の時代を迎えるが、それは成長が二つの大敵と熾烈な戦いを繰り広げた時期でもあった。一つは、トリックと謎解きをもっぱらとする本格派ミステリーとの対決であり、もう一つは、通俗性や娯楽性を蔑視する純文学(私小説)派との対決である。

 

江戸川乱歩に並ぶミステリーの2大巨人

作家としての闘争心が創作の原動力

 

一時期の清張はきわめて戦略的に乱歩を元締めとする本格派に攻撃を仕掛けていた。本格派のトリックを児戯的非現実的としておとしめ、自らが率いる社会派の動機重視と人間描写のほうを持ち上げたのである。

『地方紙を買う女」(昭和三二年)の犯行動機などはまさに究極のそれだろう。戦後抑留されていた夫がようやく帰国するとの報が入る。ところが妻は生活苦から下劣な男につきまとわれ、その関係を清算するために男を毒殺するという話である。清算なくして再出発はありえないという苛烈で、しかも戦争・抑留という社会性をも帯びた動機なのだ。過ちを犯した女に再出発は可能かという疑問への答えを読者にゆだねた書き方となっているのも傑出している。

純文学派との対決を象徴するのが『天城越え』(昭和三四年)という作品である。舞台を文豪・川端康成の『伊豆の踊子』と同じ天城峠として、従来見過ごされてきたこの「名作」の暗部を摘出した挑発的な作であった。

五十銭銀貨をばらまく裕福な一高生の踊子に対する高慢ぶりに、十六銭しか持たずに出郷した鍛冶屋の息子の足抜き酌婦への純情ぶりを対置することで、『伊豆の踊子』や作者川端の無意識の優越感をあぶり出してみせたのである。

本格派と純文学に戦いを挑む清張の姿はまさに『闘う作家』と呼ぶにふさわしい。その闘争心こそが清張躍進の原動力だったのだ。

(ふじい・ひでただ)

 

 

【ブック・サロン】公明新聞2022.10.24






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Last updated  February 22, 2024 04:41:49 PM
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