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カテゴリ:書評
ユダヤ人の日常言語で創作 作家 村上 政彦 シンガー「カフェテリア」 本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、アイザック・パシェヴィス・シンガー(イツホク・パシェヴィス・ジンゲル)の『カフェテリア』です。 シンガーはポーランド生まれのユダヤ人で、イディッシュ語を巧みに操り、ニューヨークに移住して、すぐれた小説を書きました。 ユダヤ人は聖書を記したヘブライ語を持っていますが、こちらは核が高く、日常的には俗語のイディッシュ語を使用していました。 しかしヒトラー率いるナチスの起こしたホロコーストで、イディッシュ語を使用するユダヤ人の多くが命を奪われ、すでに死んだ言葉として思われていた。ところが、シンガーは英語圏で暮らすようになってからも、イディッシュ語で執筆を続けた。その文学は高い評価を受け、ノーベル文学賞を与えられるに至りました。 本作『カフェテリア』は、すでに著名な小説家となったシンガーと思しき人物が主人公です。彼は食事をするのに、行きつけのカフェテリアへ出向く。常連は、売れない作家、定年になった教師、画家、翻訳家など、みなイディッシュ語を話す。新しくやってくる客は、ていてい主人公の読者であり、作品をほめた後、必ず批判する。言ってみれば、このカフェテリアはイディッシュ語のサロンのようなもの。ユダヤ人たちが羽を休めることのできる居場所でした。 主人公はカフェテリアでエステルという娘と出会った。彼の作品の熱心な読者です。「若くて、背丈も低く、華奢で、少女のおもかげをたたえた女だった」。 2人はつかず離れずの関係で、そのうちだんだん親しくなり、ある夜、エステルから電話があって、どうしても話したいことがあると言われ、自宅に招いた。 やって来たエステルが語ったことは、あのカフェテリアで白衣姿のヒトラーが集会を開いていた。そして、翌日に火災が起きて建物が焼けた(実際、作中でカフェテリアは火事になる)。主人公は、エステルが心を病んだとは言わない。「心霊現象」と評して、過去の光景を覗き見たという。 ユダヤ人にとって、ヒトラーは、恐ろしさ、おぞましさなど、人間のあらゆる闇の強迫観念の大本です。著者が、この逸話を登場人物の狂気のせいにしてしまわないところに、逆にリアリティーが生じる。そこには、主人公自身の恐れも表わされています。 やがて主人公は、エステルと距離をとって会わなくなる。旅のために街を出たとき、覚えのある男と一緒にいる彼女を見かけた。それが彼の知っている男なら、もう80代。ところが30年の昔のままの姿なのです。旅から帰った主人公はカフェテリアに出向いて、エステルの消息を尋ねたところ、どうやら自殺したらしいことが分かる——。 この物語は、現代史にまつわる、イディッシュ語が見た夢です。 [参考文献] 『世界イディッシュ短編選』西成彦編訳 岩波文庫
【ぶら~り文学の旅 海外編㉞】聖教新聞2023.9.27 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 30, 2024 05:52:39 AM
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