|
カテゴリ:平和
ウクライナ戦争と日露戦争の類似点
佐藤 優●日清戦争以降、日本は10年に一度、戦争する好戦国家になってしまいます。日露戦争(1904年)で日本はロシアに勝利するわけですが、歴史を振り返ると日露戦争のバックグランドでは、イギリスやアメリカの思惑が蠢いていました。 誤解を恐れずに言いましょう。アングロサクソンは、自分では戦わず他人に戦わせるのがとてもうまいのです。実例をあげれば、1856~60年の第二次阿片戦争(アロー号戦争)は、イギリスとフランスの連合軍と清国が激突したことになっていますが、英仏連合軍の最前線には相当するインド人が参加していました。イギリスは「アジア人とアジア人を戦わせるという構図をつくり、自らは後ろに控えていました。
安部 龍太郎●第二次アヘン戦争と同様の構図が日露戦争にもあったのです。日清戦争後、ロシアは清国や朝鮮に急接近して満州進出への足掛かりとします。列強のイギリスは、当時の東アジアにおけるロシアの動きに対抗することができませんでした。世界に大帝国を築いていたイギリスでしたが戦線を広げすぎていたのです。 ひとつが十九世紀の末から1902年まで続いたボーア戦争(南アフリカ戦争)です。
佐藤●南アフリカの金に目をつけて植民地化しようとしてイギリスでしたが、南アフリカのボーア人に激しく抵抗され、ボーア戦争が勃発します。それ以外にイギリスはロシアとのグレートゲームも仕掛けます。 1858年、イギリスはインドを植民地化しました。大英帝国の一部であるインドから北上して、イギリスは中央アジアに至ろうと目論みます。それに対してロシアは、中央アジアからアフガニスタンを経由してインド洋に至ろうと考えました。
安部●イギリスは先手を打ってアフガニスタンに侵攻すると、1878年には第二次アフガニスタン戦争が起こります。
佐藤●このグレートゲームが結局どういう形で落ち着いたのでしょう。ロシアとイギリスはアフガニスタンでぶつかり、両方が膠着して動けなくなってしまいました。世界に手を拡げすぎたイギリスは、日清戦争後に満州へと南下するロシアの動きを食い止めるだけの余裕がなかったのです。
安部●そのイギリスに変わり日本がロシアと対峙した側面が日露戦争にはあったわけですね。 2022年2月に勃発したウクライナ戦争は、ロシア対ウクライナという単純な図式ではありません。ウクライナの背後からNATO(北大西洋条約機構)、とりわけアメリカが支援して大量の武器を送り込み、NATOの代理戦争を呈しています。
佐藤●その意味では、日露戦争における欧米列強諸国との関係と似通っています。
【日露戦争から学ぶ、戦争を止める〝知恵〟】安部龍太郎・佐藤 優対談/潮2023.1月号 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 23, 2024 04:42:08 AM
コメント(0) | コメントを書く
[平和] カテゴリの最新記事
|
|