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July 13, 2024
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日々を丁寧に生きよう/崇峻天皇御書(その1)

 

「崇峻天皇御書」とも、「三種財宝御書」とも呼ばれる建治三年九月十一日づけの、四条金吾宛の書簡。

 

次のような一節があり、とても親しまれている書簡です。

 

設い殿の罪深くして地獄に入り給わば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしますらめ

 

一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ

 

 

人身は受け難し爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、

 

 

中務三郎左衛門尉は主のためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、

 

 

穴賢・穴賢、蔵の財より身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。

 

日蓮大聖人の文章の特徴は、単に理屈を述べつらうところにあるのではなく、具体的な人の生きかたとして、結実するような文章、しかもとても日常的なことばづかいで、それらが語られていることにあります。

 

「あなたが、地獄に堕ちるならば、私もともに地獄に堕ちていこう。はて、その場合、ここは地獄だろうか」という意味をいうのに

 

設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮を・いかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏・法華経も地獄にこそ・をはしまさずまれ

 

と語られる。

 

 

この具体的な、映像的イメージをともなった描写は、なかば強制的な説得力ではなく、あくまで日常的人生のリアリティ、体温をともなっています。ドラマチックな内容なのに、暑苦しくない。すがすがしさを感じるのは、そのためでしょう。

 

 

さて、本抄は、大聖人門下の四条金吾が、それまで不興をかっていた主君が病気にかかったことにより、医薬の心得のあるものとして呼び出された、その経緯を大聖人に知らせたことに対する返事です。

 

 

割と、四条金吾はこのような「順風」が吹いてきたように見えるとき、判断を誤ることが多いのでしょうか?

 

領地が減らされるかどうか、という不安がなくなった時も、外で酒を飲み歩いて、心許してもいい仲間を遠ざけるという、脇の甘さが目立ちました。

 

大聖人は、その時も、「酒を飲むとしたら、家で女房と飲むことが、衆生所遊楽そのものではないのか」というお手紙を認められています(御書p1143

 

この御書をみると、注意を促すことばが、たくさんでてきます。

 

 

又我が家の妻戸の脇・持仏堂・家の内の板敷の下か・天井なんどをば、あながちに・心えて振舞い給へ、今度はさきよりも彼等は・たばかり賢かるらん、いかに申すとも鎌倉のえがら夜廻りの殿原にはすぎじ、いかに心にあはぬ事有りとも・かたらひ給へ。

 

 

しゃべり方、服装などへの注意。

 

それは、「ブラック校則」ではありません。順風なとき、しばしば得意げになり、家庭や仲間をほったらかしにして、身近なことをないがしろにして、意気揚々と得意げになる、金吾の「オッサン性」

 

 

そして、結論がこれです。

 

殿は腹悪き人にてよも用ひさせ給はじ、若しさるならば日蓮の祈りの力及びがたし

 

 

「腹悪き」という言葉は、とてもキツい言い方です。

 

しかし、日蓮大聖人にそれは、身近な日常をないがしろにする、「オッサン性」「傲慢さ」は、そのぐらいキツい言葉で評すべきことだったのでしょう。

 

逆が「世間の心ね」です。

 

これは、世間体を気にせよということではありません。あくまで社会のなかで、生活のなかでの行為一つ一つに、仏法は現れるものであるというのです。

 

「心の財」「人の振舞」

 

 

仏教は、おのれのみ貴し、という独善ではなく、あくまで豊かな社会性を持つもの、またその社会性で、社会を豊かにしていくもの、というのが、大聖人が描いた仏教の人間像ではなかったかと思います。

 

 

 

 

 脱神話のリアル/崇峻天皇御書(その2)

 

 

さて、建治三年九月十一日付の四条金吾への書簡。「崇峻天皇御書」との名前で親しまれているのですが、「崇峻天皇」についてそれほど語られることは、なかなかないので少し整理しておきましょう。

 

崇峻天皇は、6世紀後半に在位した、実在の天皇です。

 

「神国王御書」(p.1517)に「第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて・第三十四代推古天皇の御宇に盛にひろまりき」とあるように、仏教が日本に伝来したころの天皇です。

 

但し、仏教伝来については、いくつかの説があり、538年説と、552年説などが、今有力です。

 

ただし、553年説は、当時、もっとも有力だった三論宗の説では、この時から「末法」となり、また、仏教流布の舞台が、像法時代のアジア大陸から日本へと変わる(三論宗の説)ということを受けて、それに沿った形で、後付けで作られた説であるという可能性もあります。

 

崇峻天皇の即位は、553年あたりなので(このころの歴史は年代確定が難しい)、大聖人が、仏教伝来は崇峻天皇の時としたのは、おそらくこう有用な説が当時は、流布していたのでしょう。

 

ちょうど、物部氏と蘇我氏の対立抗争の、不安定な時代です。この後には、いわゆる「大化の改新」という事件があり、律令制度の確立へと向かいます。「歴史年代」を中国のように確定して記録として残していこうという流れもあるので、それ以降ならば、年代はかなり正確に残されてきていますが、なにせ、社会が不安定で、記録もきっちり残していこうという流れのないので、とにかく、正確を期待すること自体が、むずかしい。

 

それから。記録もきっちり残していく、といっても、ある意味、権威者によって認定された記録なので、きっちり記録されているからと言って、恣意性(都合のいい確定)が、さらに色濃くなる場合もあります。

 

さてさて、その前の、不安定な時代です(といっても、力による安定が本当に安定かという疑問がありますが)。

 

その混乱のなかで、崇峻天皇は、殺されます。

 

歴史的に「殺された天皇」は、数人推定されていますが、動かせない史実として、否定できない根絶がある「殺された天皇」は、崇峻だけです。

 

崇峻の前、物部と蘇我の対立に、仏教伝来を巡る対立が加わります。

崇仏派、廃仏派の対立です。大臣(畿内の豪族のたばね)・蘇我氏は、仏教をもって国を統一しようとする崇仏派、大連(畿内以外の豪族のたばね)・物部氏は、それを拒絶する廃仏派。

 

また、機内は、ある意味、渡来人の影響が大きかったというか、武器を初めとするさまざまな道具類は渡来人が製造技術を持っていたり、製造していたりするわけですから、影響どころではなく、「土台となった」といってもいいでしょう。

 

 

さてさて、崇峻天皇が殺害された理由ですが、なんと、大聖人は、かなり正確な記述をされています。

 

或時人・猪の子をまいらせたりしかば・こうがいをぬきて猪の子の眼をぶつぶつと・ささせ給いていつか・にくしと思うやつをかくせんと仰せありしかば、太子其の座にをはせしが、あらあさましや・あさましや・君は一定人にあだまれ給いなん、此の御言は身を害する剣なりと太子多くの財を取り寄せて御前に此の言を聞きし者に御ひきで物ありしかども、有人蘇我の大臣・馬子と申せし人に語りしかば馬子我が子となりとて東漢直駒・直磐井と申す者の子をかたらひて王を害しまいらせつ

 

 

崇峻天皇にイノシシの子を献上した人がいます。イノシシの子は瓜坊といってかわいいらしい。おそらく愛玩用にと献上したのでしょう。

 

ところが、崇峻は、あろうことか、髪に刺してあるかんざしを抜き取り、イノシシの子の目を「ぶつぶつ」と刺して、「私は、嫌いなやつをこのようにしたい」というわけです。

 

これは、すさまじい。

 

「ぶつぶつ」ですよ。

 

ものすごいリアルな描写ですよね。

 

しかも、大きく強い大人のイノシシではなく、かわいらしい瓜坊。

 

崇峻のサディスティックな性格が、見事に伝わります。

 

日蓮大聖人の時代、「清め」「汚れ」という考え方が広まっていきます。

 

まだ、神道は思想として形成途中であり、確定的な教義を持つ宗教ではありませんでした。

 

大きな影響を成したのが、歴史的にかなりねじ曲がってきて、日本に入って来た仏教です。

 

日本に入り、さらに日本で変質した仏教は、例えば「不殺生」の倫理を拡大解釈して、漁師、猟師などを、「穢れた人々」、つまり、生物を殺す悪行をなす人々としたわけです。

 

そして、反対なもの、つまり「穢れなききよらかな存在」として、天皇が構想されていく。

 

「天皇」の概念は、神道ではなく、日本仏教が作り上げていくわけです。

 

 

でも、生活のうえで、どうしても魚などを獲らざるをえない猟師・漁師と、その獲れた魚などを、きれいに調理された形で食す天皇どちらが「殺生戒」を破っているのか。

 

そういう問題に目を背けて、けがれなき天皇像が形成されていくのが、平安時代から鎌倉にかけてなんです。

 

 

そのなかで、亥子の目に「ぶつぶつ」とかんざしを刺す崇峻。

 

 

蘇我馬子は、この「嫌いなやつをこのようにしたい」の「嫌いなやつ」は自分だと思い、東漢直駒・直磐井に、崇峻を暗殺させたわけです。

 

 

「けがれなき神話的存在」の背景に血塗られた歴史。

 

大聖人は、それを「第一秘蔵の物語」として、秘蔵せず語るわけです。

 

天皇であれ、武士であれ、漁師であれ、「心の財」を積み、日々の振る舞いを自省する「私」であるのか、という問いを、大聖人はされているわけです。

 

 

 

 

【「友岡雅弥さんのセミナー」より】






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Last updated  July 13, 2024 04:49:12 AM
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