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衆生所遊楽 どこで人は救われるのか?/四条金吾殿御返事 その1のつづき (友岡雅弥)
四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)につぎのようにあります(p1143)。 ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず。賢人、聖人も此の事はのがれず。ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ。苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへ・ゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ。恐恐謹言。
「難」に関する日蓮大聖人のお考えが、明白に分かる御文です。
「世間の留難」が来ても、「とりあうな」、「ほっとけ!」というのです。そして、「賢人、聖人も世間の難は逃れることはできない」と。
大聖人のお考えは、人生における様々な困難がなくなったり、それを避けることができたりするのは。仏法とは無関係であるというのです。「そんなこと、とりあうな」と。
悠々と「女房とさけうちのみて南無妙法蓮華経」と。
ただし、これは「酒を飲め」という話ではありません。
この前年の秋の、同じく四条金吾宛のお手紙には、
「かまへて・かまへて御用心候べし、いよいよ・にくむ人人ねらひ候らん、御さかもり夜は一向に止め給へ、只女房と酒うち飲んで・なにの御不足あるべき」(p1147) 半月ほど後の「四条金吾釈迦仏供養事」にも、
「けつして百日が間をぼろげならでは・どうれい並に他人と我が宅なら夜中の御さかもりあるべからず」(p1147)
とあります。四条金吾は、どうしても外で酒盛りを頻繁にしていたようで、命を狙われているかもしれないから、酒を飲むなら、家で飲めというわけです。
女房と酒飲むので十分じゃないか、敵味方をきちんと見定めようというわけです。
人間として、細心の注意を払い、その上で、悠々と、難などに動じないで、生きていこうというわけです。
さて、「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへ・ゐさせ給へ」という一節にも、大聖人のお考えがにじみます。
苦を楽と開くのではない。
「苦は苦とさとる」
「楽を楽とひらく」
この「さとる」と「ひらく」に心を留めたいと思います。
「苦難」を冷静に見つめること。悲観や楽観などの「感情」に流されず、その原因を冷静に知り、それへの対処を冷静に考える。
また「楽(安楽)ということについては、これに固執、執着せず、より広い見識を持つこと、また、他者や社会へと広げること。
「南無妙法蓮華経とうちとなへ・ゐさせ給へ」
__「うちとなへさせ給へ」ではなく、「うちとなへ」「ゐさせ給へ」となっています。
「ゐ」は「居」。つまり、瞬間的な感情で、題目を必死であげるというより、淡々と、それが生活の日常であるように持続していきなさい、というわけです。
大聖人の姿勢は、常に変わりません。どんなことがあっても、天が捨てても、難にあっても、利他に生きたのです。
それを私たちがどこまで生活の上で、「我が事」にしていけるかどうか?
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Last updated
July 21, 2024 06:58:02 AM
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