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July 31, 2024
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カテゴリ:コラム

紫式部と琵琶湖

京都先端技術大学 人文学部 教授 山本 淳子

「源氏物語」誕生の地の伝説

『源氏物語』は、琵琶湖南端の瀬田川に面した石山寺で書かれた——という俗説を、ご存知の方は多いだろう。伝説の発祥は古く中世に遡り、寺の歴史を記した『石山寺縁起絵巻』のほか、ほぼ同時期の『源氏物語』注釈書『河海抄』にも見える。

それによれば、紫式部は、仕えていた中宮彰子から新作物語の創作を命ぜられていた。そこで石山寺に籠り観音菩薩に夜通し祈ったところ、八月十五夜の月が琵琶湖の湖面に映り、インスピレーションを得ることができた。さて、忘れてしまう前にそれを書きとめなくてはならない。紫式部は本尊に許しを請うて、仏前の書写用紙に「須磨」「明石」の魔身を書き始めたという。さらに後日、紫式部は神を拝借した罪を悔いて六百巻の経典を書写して奉納、それは今でも寺にあるという後日談付きである。観音菩薩は当時、縁結びや子宝など現世利益を叶えてくれる仏として信仰を集めており、石山寺は特に人気があったのだ。

ただこの伝説が事実かといえば、それは難しいだろう。光源氏は様々な紆余曲折を経て「須磨」で都を離れる。それを飛ばして「須磨」の場面から書き出すことができるか。もっとも、架空の物語ながら登場人物の袴で実在するのが『源氏物語』である。その成立について、千年来、人々は想像を膨らませてきた。その表れの一つが琵琶湖の月伝説であることは確かだ。

石山寺はさておき、紫式部と琵琶湖、そして『源氏物語』の間には深い線がある。それは紫式部が娘時代に琵琶湖を船で航行した体験に遡る。古来、琵琶湖は都と日本海側をつなぐ重要な道で、紫式部が長徳二(九九六)年、父・藤原為時の越前赴任に伴って下向した時にも、一行は琵琶湖を船で北上した。時期は夏、やがて空に暗雲が垂れ込めてきた。その時の気持ちを、紫式部は和歌に詠んでいる。

かきくもり 夕立つ波の 荒ければ 浮たる舟ぞ 静心なき

(空が真っ暗になり、夕立の気配で立つ波が荒くなってきたので、湖面に浮いている舟は安心していられない)(『紫式部集』22番)

極めて素朴な調べだが、その素朴さが、紫式部に押し寄せていた感情の激しさを示している。身体と心の不安。運命に委ねるしかない無力感、無常観である。

この「浮たる舟」を呼び名として引き受けたのが、『源氏物語』最後のヒロイン・浮舟であった。人の弱さと温かさを凝縮したような彼女は、和歌で自分を『浮舟』と呼んだのだ。背徳の恋の道中、宇治川の水面に浮かぶ小舟で詠んだ和歌だ。かつての紫式部をはるかに超える人生への怯えが、ここにはある。

娘時代からの長い時間と、夫との死別など様々な経験を通り越して、紫式部は思い当たったのではないか。人生とはまさにあの若き日の体験、波立つ琵琶湖の水面を行くようなものだった。それでも、生きていく。『源氏物語』の行きついてテーマはそれだったと思う。浮舟を描く時、紫式部はきっとかつての自分を労るような気持だったと、そのように思うのである。

 

やまもと・じゅんこ 石川県金沢市生まれ。京都大学大学院・人間・環境学研究科修了。2007年、『源氏物語の時代―一条天皇と后たちのものがたり』でアントリー学芸賞を受賞。著書に『古典モノ語り』(笠間書院)、『紫式部ひとり語り』(角川ソフィア文庫)、『紫式部日記と王朝貴族社会』(和泉書院)など。

 

 

 

【文化】公明新聞2023.5.31






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Last updated  July 31, 2024 07:19:48 AM
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