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August 7, 2024
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カテゴリ:コラム

水の都に栄えた渡船

武庫川女子大学名誉教授  丸山 健夫

大阪はUSJ。そのすぐ南を流れる川が安治川だ。宇安治川の上流には中之島がある。江戸時代には各藩の蔵屋敷が並んでいた。その中之島に近い安治川畔に、明治時代には外国人居留地もあった。安治川は大阪の水運の大動脈だった。

そこで安治川に橋をかけることは御法度であった。ひとはやむを得ず、渡し舟を使った。民間の渡船が大繁盛した。だが大正八年、旧道路法が成立。「道路ヲ接続スル橋梁及渡船場」は道路の付属物とみなされた。渡船の経営は、大阪市に引き継がれることになる。そして道路と同じ扱いになり無料となった。

昭和八年の記録によれば、安治川には十二の渡船場があり、年間千八百万人のひとと三百六十万台の自転車を運んだ。同じ年、大阪市の渡船場は全部で三十二。四千四百四十万人のひとと千百万台の自転車を乗せている。大勢の人が列をなし、乗船を待つ姿が目に浮かぶ。

そこで昭和十九年、安治川の水底を行くトンネルが造られる。ひとと自転車のためのエレベーターのほか、なんと自動車用のエレベーターもあった。地底に十七メートルほど下りる。川底を八十メートル進み、また上がる。鉄道用の関門トンネルが出来た頃だ。水底トンネルとしては草分けだろう。

そして現在、安治川には渡船が一箇所だけ残る。朝のラッシュ時、その天保山渡船場では、十五分おきに船が出る。大阪市全体では、合計八箇所の渡船場が残る。安治川トンネルも健在だ。さすがに自動車用エレベーターは廃止されたが、ひとと自転車でいつも賑わう。トンネルもそして渡船も誰でも使えて無料である。

大阪はかつて水の都といわれ、船が最優先だった。その名残が今でも生きている。

 

 

 

【すなどけい】公明新聞2023.6.9






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Last updated  August 7, 2024 05:19:41 AM
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