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ハンナ・アーレント、三つの逃亡 ケン・クリムスティーン著 百木 漠 訳
「戦争の世紀」を考え抜いた女性思想家 山口大学教授 小川 仁志 評
公共哲学の祖とも称される女性の現代思想家ハンナ・アーレント。彼女の人生はまるで映画のようである。いや、実際に映画になっている。そして今度は漫画として描かれた。 本質の伝え方はさまざまである。ビジュアルイメージを不可分の要素としているといっていいだろう。 それは彼女の哲学が人生と切り離せないものであり、かつその人生は激動の時代といわれた20世紀のクライマックスとぴったり重なるものだからである。あの激動はビジュアルでしか伝わらないといっても過言ではない。 戦争、強制収容、大量虐殺、そして逃亡。逃亡というと誤解があるかもしれない。本書のタイトルにもなっている「三つの逃亡」。少なくともそのうちの二つは亡命である。 第二次世界大戦前後のヨーロッパでは、多くのユダヤ人が亡命を余儀なくされた。ユダヤ系のドイツ人であったアーレントも、その一人である。彼女は最初フランスへ亡命し、その後アメリカに亡命することになる。アーレントの哲学はその過程で育まれてきた。だから人生のビジュアルイメージと不可分なのだ。 では、三つ目の逃亡とは何か? 訳者はあとがきでこんなふうに解釈している。それは彼女が、詩であり逢人でもあったハイデガーと決別し、自らの政治思想を作り上げたことを意味する。 たしかに、アーレントを語る上でハイデガーの存在は無視できない。普遍的な真理を探究する哲学という営み。その権化ともいえるハイデガーは、一時期ではあるがナチスに加担してしまった。たとえどんな理由があったにせよ。 そのハイデガーの哲学を乗り越えることこそが、アーレントにとっては至上命題だったのだ。それは場所からの逃亡ではなく、哲学からの逃亡、正確にいうとそれまで支配的だったヨーロッパの哲学からの逃亡を意味していた。 しかし、その逃亡もまた、決してネガティブなものではなく、政治的亡命がそうであるように、新たな世界を切り開くための勇敢な行為であったことは間違いない。戦後ハイデガーと再会し、彼と果敢に対決するシーンは、新たな哲学を生み出す瞬間に立ち会ったかのような感動を覚えさせる。 哲学と決別し、政治思想家となったアーレントは、しかしまた新たな哲学を生み出したのだ。それはどこまでも考えることを追求し、彼女の人生さながらに、行動することを重視する公共哲学の誕生にほかならなかった。 そういえば、アーレントは常に煙草を吸っていた。ナチスに囚われた時も、議論するときも、そしてもちろん思考する時も。その煙草の煙もまた、20世紀を象徴するビジュアルイメージ一つである。 紫煙燻ぶる時代の中に見え隠れしていたもう一つの心理。今私たちには、その輪郭がはっきりと見えている。ハンナ・アーレントという先駆者が果敢に逃亡し続けてくれたおかげで。 ◇ ケン・クリムスティーン 漫画家。本書で全米ユダヤ図書賞ファイナリスト。 ももき・ばく 関西大学法学部准教授。専門は政治思想史・社会思想史
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Last updated
August 25, 2024 07:04:46 AM
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