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カテゴリ:コラム
神戸・大倉山と国会議事堂 武庫川女子大学名誉教授 丸山 健夫 初代内閣総理大臣伊藤博文が亡くなった二年後の一九一一年。親しかった大倉喜八郎は、神戸の山手に巨大な伊藤の銅像を建てた。そして周辺を公園として寄付する。大倉山公園である。 銅像の台座には、ギリシャ神殿を想わせる柱が四本。その上にエジプトのピラミッドのような石段があり、頂上に巨大な伊藤の像が立っていた。銅像は戦時中、金属類回収令で提供されたが台座は今でも公園に残っている。ところがこの台座のデザインが、現在の国会議事堂の中にある等の補任と酷似している。 台座を設計したのは、武田五一という建築家だ。国会議事堂と台座が似ているのは、議事堂の設計チームの中に武田の弟子がいて、師匠のデザインを取り入れたとするのが通説である。ところが最近私は、あるテレビ番組の依頼で再調査し、武田の国会議事堂の設計への直接関与を示す資料を発見した。 武田は一九〇八年、旧大蔵省から新国会議事堂の設計調査を依頼され、約九カ月間、欧米視察に派遣されている。台座の設計はその帰国直後だ。初代内閣総理大臣が、武田の理想とする国会議事堂の上に立つというコンセプトだろう。そして欧米派遣から十年後、武田は今の国会議事堂建設の母体である大蔵省臨時議員建築局の技師に就任していた。今回の発掘した当時の臨時議員建築局の職員録では、武田は兼任ながら筆頭の技師。彼の弟子は十一番目の末席である。議事堂の中央部分は設計変更を繰り返したが、武田は最後の最後に自分の理想を実現できたわけだ。 もし今でも銅像があれば、国会議事堂を見るとき、塔の上に伊藤の姿をイメージするかもしれない。酷寒議事堂のデザインのルーツが、神戸にあった。
【すなどけい】公明新聞203.8.4 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 27, 2024 05:51:41 AM
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