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カテゴリ:書評
「明るさ」の奥に浮かび上がる「暗さ」 生誕100年 司馬遼太郎を読む 立命館大学 教授 福間 良明 日本陸軍の暴力とその背景 戦争体験根差す批判精神 司馬遼太郎は、1923年の大阪・浪速に生まれている。昭和戦前期に幼少期・青春期を過ごし、戦争末期には学徒出陣で戦車部隊に配属された。司馬の歴史小説では、戦国時代から幕末、明治期まで、さまざまな時代が扱われているが、その行間には戦前・戦後の体験が投影されている。 司馬の作品といえばすぐ思い起こされるのは、『坂の上の雲』だろう。秋山好古・真之兄弟や正岡子規を主人公に、日露戦争終結までの明治の時代が描かれている。「明治百年」のタイミングで新聞連載が始まったこともあり、近代日本を謳歌する作品として受け止められている。だが、この作品は「明治の明るさ」ばかりを描いたわけではない。藩閥の機能不全や政治・軍の組織病理も、じつに色濃く描きこまれている。 「昭和の暗さ」も際立っていた。作品のなかでは、明治の「明るさ」(もしくは「暗さ」)との比較対象で、昭和陸軍の過剰な精神主義と合理性の欠如、セクシャナリズムなどの問題が随所に言及されている。それは明らかに、戦車という「敵のロジーの塊」を扱いながら、合理的な運用を欠き、末端兵士を無駄に消耗するばかりの軍隊に身を置いた芝の戦争体験に根差していた。今日の軍事史学の見方とは異なるものの、二〇三高地攻防戦で何万野の兵士を無為に投じては死なせるばかりの第三軍司令官・乃木希典の描写は、その典型だった。司馬にとって「明治の明るさ」は、フィルム写真でいうところのポジではなく、むしろ、司馬が退官した「昭和の暗さ」を描くためのネガでしかなかった。 同様のことは、他の作品にも当てはまる。『国盗り物語』では、室町期の不毛なしがらみをかなぐり捨て、自由でのびやかな経済と合理的な軍事・政治を模索する斎藤道三や織田信長が描かれている。『竜馬がゆく』の坂本龍馬、『花神』の大村益次郎にも、幕末という変革期を背景にした主人公の合理性と伸びやかさを見出すことができる。 他方で、大坂の陣と豊臣家の滅亡を描いた『城塞』は、決して「明るい」物語ではない。むしろ、秀頼や淀殿の取り巻によって政治・軍事の合理性追求が繰り返し阻まれ、その結果、じりじりと袋小路に追い込まれる組織病理が描かれている。 だが、ある時代を明るく描こうが暗く描こうが、そこに重ねられていたのは、昭和の明治・軍事・経済のひずみだった。それが明示されないことも少なくないが、見る人が見れば、例えば兵力の逐次投入の誤謬により失敗に終ったガダルカナル戦や旧日本軍による戦地での暴虐を、容易に思い起こすことができる。 司馬の歴史小説には、明るく伸びやかな記述は少なくない。だが、司馬の戦争体験やそこにいたる昭和史を念頭に置いて読み直してみると、実は昭和陸軍の暴力やそれを生んだ政治・社会への批判が色濃く込められている。「明るさ」をいかに直視するか。司馬遼太郎生誕百年の今日、そのことを改めて考えてみてもよいのではないだろうか。 (ふくま・よしあき)
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Last updated
October 10, 2024 04:25:52 AM
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