フェアネスということ
例の日本人選手のボクシングの試合は、会社で、同僚の携帯のワンセグで見ていた。素人目の感想にすぎないが、ベネズエラ人選手は、身体の動きに切れがあり、最後までテクニックが美しかった。それと対照的に、日本人選手の動きは不細工で、美しさも、鋭さもなかった。まっすぐ突進しては、どかどかと叩こうとするが相手には届かない。ガードしているようでありながら、すき間からベネズエラ人に巧みで鋭い手を何度も打ち込まれる。9回を過ぎたところで同僚の携帯の電池が切れたが、大口を叩いたあげく、結果が出ない試合だったな、と日本人選手の負けを当然のように想像しながら仕事に戻った。ところが帰宅すると、同僚が言った通りの結果がTVで流れていた。同僚が言ったのは「判定になったら、勝っちゃうかも知れませんよ」ということ。あの一家のファン、あるいはボクシングのファンには申し訳ないが、ボクシングというものに情熱を持ち、膨大な練習を積み、色々なことを犠牲にして努力をしてきた、それはすごいと思う。試合相手を態度や言葉でけん制したり、威勢のよいメッセージをTVや本で発信したりするのも、問題ない。スポーツの持つエンターテインメントの側面は何も否定しない。だが、スポーツの勝敗には、感情は入るべきではないし、その必要もない。誤解がないように言うと「勝敗には」であって、スポーツにはもちろん感情は入るよ。好きなチームや選手を応援したりするのは当たり前の感情だし、美しい技、素晴らしい技、到達点の高みとしての結果は、人を感動させる。それが応援している側でも、相手側であったとしても。ファンの言い方を聞いていると、あの涙に感動したとか、努力したんだから、というような言葉が目立つ。それはそれでいいと思う。ファンなのだから。だけど、特別に思い入れのない、一非ファンから見ると、違和感が残る「勝敗の結果」であったのではと言わざるを得ない。どんなスポーツであれ、試合中にどちらかを贔屓して応援したりすることは普通だし、努力をした姿を見て応援する気持ちになるのは当然だ。が、終わったら冷静になろうよ、と思う。これはいつでも、何のスポーツでも思うこと。勝った方を素直に称えよう。それがフェアな試合であったなら。いっくらどれだけ努力しても、適わないことはどうしてもある。相手の努力が勝っていた、と単純な理由がつかないことだってあるだろう。だが、努力が勝敗を決めるのであれば、試合をする必要はないんじゃん。だから、努力したから、あれでいいんだ、とは思えない。本人の涙、父親へのベルトのプレゼントなど、感動のための小道具も別にいいと思う。エンターテインメントでしょ。だが、ファンではない立場からすると、だからと言って、勝敗の結果にはそれらは何も関係しない。かえって、違和感があるだけに、本人の涙が感動を人に与えるものだったとしても、それが素直にはこちらには伝わってこない。色々な人が言っているのを見たり、聞いたりするが、本人は悪くないんじゃないかな、と思う。19歳という年齢も考えれば、周りに言われたりすることにものすごく影響されるだろうし、なによりも既に書いたように、ボクシングに対して情熱を持ち、人に誇れるだけの努力をしてきたのだろうし。今度試合をする時には、結果を出してくれるといいなと思う。心の底では、ああいうエンターテインメントは嫌いじゃないのである。