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きらめき星の世界

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2008.09.06
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カテゴリ:歴史

 

 14世紀前半、北アフリカから中東、インド、東南アジアに及ぶ広大なイスラーム世界を旅をして回った人物の旅行記のタイトルです。

 あんまり長いんで普通「大旅行記」とだけ言います。

 

 1304年2月24日、現在のモロッコのジブラルタル海峡を臨む港町タンジール(タンジェ)に生まれたイブン・バットゥータ(これも正式な名前は長すぎるので省略・・)は、彼の21歳から50歳までの約30年間を世界中を旅して回ることに捧げました。

 もともとメッカへの巡礼(ハッジ)を果たすためだったのが、旅が旅をよび、イラク、トルコ、黒海沿岸、ロシア、西アジア、中央アジア、インド、スリランカ、東南アジア、中国を回り、一度帰国した後もイベリア半島(スペイン)、アフリカ(現在のマリ共和国周辺)を回り、その全行程は11万7000km(約地球3周)になります。

(ただし、黒海沿岸、特に中国、東南アジアについては見聞した情報を書いているだけで行ってはいないと考える研究者も多い)

(以下の図表は、家島彦一「イブン・バットゥータの世界大旅行」(平凡社新書)によります。家島氏はこの「大旅行記」を初めて日本語に全訳された方です。)

 

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(縮小して見にくくてすいません)

 

 14世紀、中央アジアはチンギス・ハーンによって打ち立てられたモンゴル帝国の時代です。イスラーム世界とモンゴル世界、それをとりまくインド洋海域、地中海海域を中心とした国際交易ネットワークができていました。(当時のヨーロッパはまだまだ一地方です)

 

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(個人的にはモンゴル帝国の世界史へのインパクトには、若干疑問があるのですが・・・)

 

 この当時の国際世界を(結果として)くまなく見てまわったのがイブン・バットゥータです。文献がなく、彼の記述が最古となる地域も多く、第1級の貴重な史料であることは間違いありません。

 

 イスラーム教徒にとっての旅とは、1つにはメッカ巡礼の旅であり、また、各地の高名な学者・聖人と出会い学問を探求する旅でもありました。当時、国家主催の巡礼のためのキャラバン隊が数多く編成されており、さらに旅人や巡礼キャラバン隊を手厚く保護するのがイスラーム精神の発露であるしてそうした制度がきちんと整っていました。イブン・バットゥータもこうしたキャラバン隊を利用しています。キャラバン隊には護衛の軍隊や巡礼者の他にも、遊牧民、商人、職人、学者など様々な人がおり長い旅の苦楽をともにする仲間(ラフィーク)として互いに助け合い、仲間内で結婚することもありました。イブン・バットゥータも結婚しています。(すぐに離婚してしまいますが・・)

(付け足し:彼は旅の途中何度か結婚して子どもも設けています。異国の地から妻に送金したりしてます。)

 

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 イブン・バットゥータは法学者として故郷で自分の基礎を築き、旅によって各地をまわる間、多くの学者・聖人と交流しています。ただ、彼はあくまで旅行家であって彼自身がどこかで根を下ろして何かをするということはありませんでした。放浪の人の宿命かもしれません。興味の赴くままに旅を重ね、たまたま残った旅行記が貴重な史料として再発見されたのです。

 彼の故郷タンジールはイスラーム世界の西側の外れに位置します。西方イスラーム世界(マグリブ)に対して現エジプトのカイロより西の東方イスラーム世界(マシュリク)は文化の中心地としての意味合いが濃く、彼は自分がマグリブ人であるというアイデンティティをもってイスラーム世界を見つめました。そういう意味ではこの旅行記は彼の人生観・世界観の表れでもあります。

 彼の書いた旅行記は彼自身の意志で書いたものではありません。旅の話を聞いた故郷マリーン朝のスルタン=アブー・イナーンの命により、彼の口述をもとにイブン・ジュザイイという人物が編集して1355年に完成しました。イブン・ジュザイイはマリーン朝に仕えた学者で、この旅行記を完成させた翌年、わずか36歳でこの世を去ります。「口述」と書いたのは、イブン・バットゥータは旅の手記をもちろん書いていたのですが、山賊、海賊に襲われて身ぐるみはがされ、という経験を何度もしてそうした手記もなくなっており、全ては彼の記憶から書かれたものなのです。そのため誤解や矛盾もあるのですが、イブン・ジュザイイはあえて細かい修正はせず、そのままを書き写したと序文で述べています。

 その中には、人々を驚嘆させるような、とても信じられない話も多く出てくるため、彼をうそつき呼ばわりする声が絶えなかったそうです。この辺はマルコ・ポーロに似てますね。ややもすると異端の書として、イスラーム世界でもあまり省みられることはなく、19世紀になってヨーロッパの学者によってようやく知られるようになります。旅を終えたのちのイブン・バットゥータは法学者として仕官し静かな余生を送ったようです(というよりほとんど情報がない)。そして約20年後、1368/69年頃亡くなったといわれています。

 

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(※以下、僕はまだ旅行記全文を読んだわけではありません。)

 旅行記は、故郷タンジールを出発するところから始まります。(地図帳片手にどうぞ)

 「私には親しく付き添ってくれる旅仲間もなく、集団で行くキャラバン隊に加わるのでもなく、ただ1人の旅立ちであったが、抑えがたい心の強い衝動にかられ、またあの崇高なる約束の場所(聖地メッカとメディナのこと)を訪れたいという胸の奥深く秘めていた積年の想いがあった」

 タンジールからエジプトまでの旅路は、故郷に残した両親への思いや病気、一人旅の寂しさや不安に満ちています。

1.北アフリカ(マグリブ)からアラビア半島

タンジール→チュニス→アレクサンドリア→カイロ→ダマスカス→メディナ→メッカ

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 北アフリカを陸路で東へ、アラビア半島に致します。メッカで念願の巡礼大祭に参加します。普通ならこのままアラビア半島を回って帰ってくるのでしょうが、彼の旅はここから始まりました。

 

2.イラン・イラク

メッカ→バグダード→イスファハーン→バグダード→スィンジャール→バグダード→メッカ

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「旅行中にいつも私が習わしとしていたことは、出来る限り私がすでに通ってきた同じ道をたどらない」

 

 

3.紅海、東アフリカ沿岸(スワヒリ文化圏)

メッカ→アデン→クルワー→ザファーリ→ホルムズ島→メッカ

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スワヒリ語とスワヒリ文化の起源と歴史的変化を知る上で、「大旅行記」は貴重な史料となっています。

 

4.アナトリア、黒海・カスピ海沿岸

メッカ→カイロ→ダマスカス→アラーヤー→アルズ・アッルーム→ヤズミール→サヌーブ→カルシュ→マージャル→ブルガール(?)→サライ→コンスタンティノープル→サライ

(サライはモンゴル帝国の一部、キプチャク・ハン国の首都、コンスタンティノープルは言わずと知れたビサンティン帝国の首都)

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キプチャク・ハン国については史料が少なく、これも「大旅行記」は貴重な証言の1つです。

5.中央アジアからインド

サライ→フワーリズム→サマルカンド→カブール→ラーハリー→ムルターン→デリー

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この後、インドに8年間とどまり、その周辺のモルディブ諸島やスリランカにも行きます。期間が長いだけあって、その記述は非常に生き生きとしており、情報も豊富です。

 

それを書いていこうと思うのですが、ブログの制限文字数をもう少しでオーバーしてしまうので、続きはまた次の日記にしたいと思います。それまでこの650年前の旅人の道筋をたどって一緒に世界旅行を楽しんでくださいませ。

(収まらなかった・・・。制限文字数にひっかかりそうで困ってる人って、いるのかな・・・。)

 

 






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Last updated  2008.09.06 14:06:10
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