ごくごくささいな変化
昨日のご奉仕で、ひとりでご祈願にあがった時のことです。 暑さもあって少々ぼ~っとして、ふっと瞬間に次の作法を忘れました。 あ・・・と思いましたが、身体はいつも通りの作法で動いてくれました。 私の「頭」だけが、小さなパニックを起こしていました。 そしてそれは、もう次の流れの中にすっと消えていきました。 (へえ・・・) そして、久々の祝詞で、読み方を「頭」が忘れました。あ?と思った瞬間、口はきちんと正確な祝詞を読みあげていました。 (へえ・・・) 神主の作法を学び始めた時は、手に意識をむけたら足はバラバラ。足にむけると姿勢が崩れ、手と足ばかり考えていると、次の流れを忘れ、もう主人のいない操り人形が踊っているかのような日々で(私の身体ってなんてアホなんだ!)と嘆く日々でした それでなくとも、その作法の細かいこと細かいこと・・・私のように「枠はいやじゃ」と逃げ回ってきた自分の身体は、そうした礼儀作法に従う法則を持たず、抵抗するわ忘れるわの、もうどうしましょ・・・の連続でした。 立ち方、座り方、歩き方、目線の置き方、動作の速さ遅さ、それも、ご神前のどの場所で、どのような役目をしているのかによって、右足から立つか、左足から下がるか、それらすべてが変わってきます。 神様を常に中心に意識し、失礼のない作法を心がけ、常に周りを見て、相方がいればそのタイミングに気を遣い、声の出し方、祝詞の読み方、祈願の方のお名前を正確に読むこと等々・・・新米の自分には、ハードルがものすごく高く感じられたのでした。 そうして、おまぬけ&失敗の連続の中(まだ生々しくて人様に言えません)、自分たちもそうだったと笑ってくれる先輩方に支えられながら、すでに身体に作法や祝詞がしみこんでいる方々から、「ご神前では右脳で動いている」と言う台詞も伺い、なるほどなぁ・・・そう、考えて動いているのではなく、本能で動く、天然神社のような先輩神主たちをうらやましく見つめていました。 昨日、左脳が慌てふためいている中で、無意識に口が動き、身体が自然と動いてフォローしてくれるいうこの経験は、私の中のそうした新しい回路が通ってきたように感じられて、じんわりと嬉しく感じられたのでした 最初はなかなかうまくいかないことでも続けていると、時にこんな瞬間が訪れてくれます。とってもささいな変化ですが、それはまるでごほうびのように感じられたりするのでした 感謝です