言語というツール
インフルエンザ騒ぎに便乗してしばらく学校をサボっていたために、たまった宿題を一気にやらなければならなかったぽんぽん。 「ねえ、神様の国に漢字ってある?」 「…ないと思うよ」 「なんで?」 「あー(すごく説明したいんだけど、 どうやったらわかってもらえるか悩んでる)漢字って言葉でしょ?言葉にした時点ですべてが象徴となって、その意味が限定されるからね(…ぜんぜん子供向けの説明ではない)」 「…ふーん。神様っていいねえ。勉強しなくていいし。テレパシーとかで通じるし」 「そうだねえ…(わりと通じたらしい)」 今日は私としてはとても充実した一日だったのです。 でも「言語」という壁の難しさにうなった一日でもありました。 わたしは常に、この「言語」を介するというところにスポットをあてながら、スピリチュアリティを探索しています。 「わかる人」にはわかるけれど「わからない人」にはわからない、スピリチュアルな世界。 そして「わからない人」である自分がスピリチュアリティにかかわったとき、前半世を日本語とかかわることに費やしてきたわたしの過去に「意味があった」などとこじつける必要はないけれど、「言語」はわたしの「ツール」なのだ、という自負を持って、「言語化」することから逃げることなく向き合いたいと、常に思ってきたのです。 が、やっぱむずかし~(^^; 尊敬するvijayさんは、この「言語化」の天才です。 わたしも師匠のようにとは言いません。 わたしが必要とするツールとしての「言語」のベクトルは、今のところ、ややvijayさんとは違うように思います。 まあ、それって単純に、vijayさんが言語化しているところまで体験してないからだと思います。 今日午前中にTao Houseでのはじめてのシェアリング会を、午後は出張でタロットをやらせていただきました。遠方からいらしてくださった方はもちろん、近くの方も、みなさんお時間を割いて来てくださったことを思えば、時間配分やら話の内容やら、そして「言葉」の選び方やら、私がもっとピュアに「聖霊の媒体」になれたら、もっとたくさんのものを、もっとクリアに、もっと芯までみんなで「感じられるのに」と、あらためて思いました。 「言葉」で「愛」を伝えようとすると、なんとなく「説得」したり「言い負か」したりしそうになる感じになるときがありますが、そうではなくて、「言葉」はあくあまでも「ツール」なんだ、とちょっと引いた距離で言葉を考えた一日であり、それにふさわしい娘の一言でした。 どうぞわたしの、 「たのしかったよ~!!」 という、きわめて単純な思いが、エネルギーになって、今日お会いした皆さんに伝わりますように!