オンナ心 当たり前の日常
『えっ??胃がんっ!?嘘でしょ??』絶句したまま私は、正面に対峙した彼の宣告を、ボーっと霞みがかかった様な頭で聞いていたんだよ。反応を見て高嶋君はね、再び無言のままフウって溜息をついて、持参してきたバックの中からA4の大学ノートを取り出し、太股の上に置くとスラスラと何かを書き始めた。形状から胃を描いているのだとすぐに判った。小学校時代から高嶋君は絵が上手だったから。描いたイラストを見せられて、現在起きている症状と高嶋君のおおまかな説明が合致した時、ガクガクと小刻みに身体に震えが走ったんだ。「美香ちゃん、大丈夫っ??」彼は何度もそう問い掛けたらしいのだけど、事の重大さと深刻さに自我を見失った状態の私は、自分の腕を交差させた状態で、二の腕を強く握り締めたまま震えていたんだって。「紹介状を書く」とか、「詳しい検査をしたほうがいい」とか言われた内容を全く憶えていなかったんだ。きっと死に対する恐怖心のほうが大きかったんだろう。彼を見送った後、すぐに湯船にお湯を張って身体を沈めて、『落ち着こう、とにかく冷静になろう』って何度も言い聞かせた。『まだ決定的な宣告を受けたんじゃないから、しっかりしなよ』って思い直したの。異変を指摘された以上、どんなに怖くても身体の内部の検査を受けるしかなかったし。翌日小沢にも内緒で、インフルエンザの予防接種を理由に、会社休んでこっそり検査を受けに行ったのね。向かった先は高嶋君の先輩医師の勤めるという、都内有数のがん専門病院だったよ。後日出た詳しい検査結果でも、胃透視での形とかCTでの胃壁の厚みで、ほぼ間違いの無い胃がんだとの診断結果。事実を知ったときの衝撃なんて、簡単な言葉で言い表せるなんてものじゃなく、誰にもぶつけられない悔しさと、憤りが混ざった気持ちだったな。雅夢、私ってあんまり動揺するタイプじゃないんだよ。でもその私が、頭が真っ白になるほどの衝撃を受けたのよ!だって命の宣告ってやつだよ?間違いであって欲しいとの、淡い期待も砕け散っちゃったんだもん。まさにハンマーで頭を殴られるほどのショックよっ!!結果を聞きに、一人で来なければよかったって悔やんでも後の祭よね。 『私が何をしたっていうの?一生懸命生きてきて、その結果がこれ?あんまりじゃないっ!! 』それが率直な本心だったよ。聞いた後は、自身の長い絶句の後、ひたすら涙が止まらなかった。先生はさ、泣いている私の感情が静まるのを待ってくれていたよ。その夜だったんだよ、初めてホストクラブに行ったのは。がんがんお酒飲んで、思いっきり酔っぱらってやるって考えたの。だってさお金を掛ければ、病人と健康な人との違いを感じずに、ホストの人達と、楽しい時間を過ごせるって想えたんだもん。ねぇ、今は自分の意志で、生きているって凄いって実感するの。一分一秒たりとも、無駄に過ごしてはいけないんだよね?それは雅夢との時間もそうだし、他者との関わりも、私の生きた証を刻み込んでくれる大切な存在になる。出会い語らう時間は短くとも、遠藤美香という女がどんな人間なのか、少しでも多くの人の記憶に残せたならば、きっと幸せなんだよね?今世にいなくなっても想い出してくれる人が多いほど、何度でも話題にしてもらえるじゃない!結構ポジティブでしょ?'`,、'`,、 '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、 '`,、'`,、それは貴方って存在が居るから・・・なんだからね! 美香ブログに書き終えて想う。此処に書き残した言葉は、本心なの?と。ただ、偽りの心では書けないのも事実。既にリンパにも転移している以上、残された時間は少ない。生きたいのにね、私。ブログが公になる部分だとしたら、自分の闘病日記というタイトルをつけた大学ノートはね、本音の本音を書いているんだ。これも合わせて、その当時の遠藤美香の心境だったって編集して欲しいな。貴方しか出来ない重要な役割だから、お願いします。愛する雅夢。愛用のボールペンで書き終えた後、ちっちゃく溜息をついて大学ノートを閉じた。このノートの存在は際の際まで黙っておくね。ブログではポジティブな部分を出していても、やっぱり不安なの。死ぬのは・・・やっぱり、怖いんだ。どうしたんだろうね、今日はいやにブルーな本音が出てる。健康な人間だって、メンタルに左右される。体内に不安を抱えていたら尚の事。代表を務めていた時、私は病を抱えた社員の不安や気持ちを、解ってあげられていない人間だった。人って病やいままでと異なった状況に置かれると、生きたいとの気持ちを一層強くするんだね。私も・・・一日でも長く、命の炎を繋ぎたい。だからガンを縮小させて、手術で摘出できるようにしたかったな。リンパに移転しているなんてね、思いもしなかったよ。抗がん剤TS-1の副作用にも、頑張って耐えたのに。口の中に出来た口内炎が、まるで今の心の痛みのようにヒリヒリと疼いている。死ぬのが怖い。哀しいのは、私一人の人間がこの世界からいなくなっても、誰一人生活が変わるわけじゃないという現実。積み重なる日常は、私の記憶を少しずつ確実に消し去っていくんだろう。雅夢、君でさえも。大学ノートをドレッサーの引き出しにそっとしまう。「美香、調子悪いのか?入っていい?」寝室をノックする音に答えた。「あっ!!ちょっと待って!着替え中なの!」他愛も無い会話を積み重ね、静かな日常をこれからも送っていくんだろう彼と私。互いを想うゆえの、小さな嘘や偽りを繰り返しながら。ドレッサーのチェアーから立ち上がり、寝室のドアを開けると、小さく笑みを浮かべた雅夢がエプロン姿で立っていた。「何度見ても慣れないな、君のピンクのエプロン姿」苦笑する私に彼も苦笑い。「しょうがないでしょ、このエプロンお袋から貰ったもんなんだからさ。まだ白の割烹着のほうがマシだったかなぁ。そうそう、美香の好きな茶碗蒸し作ったぞ、冷ましておいたからすぐ食べられるよ」「ん、ありがと」優しいね、君は。口内炎が酷く食欲がない時、決まって彼は茶碗蒸しを作ってくれる。ちょっとブルーな気分だったのに不思議よね、雅夢の顔を見たら、霧が晴れるように気持ちが落ち着くよ。私のウエストに優しく手を回し、身体を支える仕草。そっと肩に寄り添う。美香は我慢強い女だ。抗がん剤の様々な副作用に耐え、あの時以来愚痴一つ俺にすら吐き出さない。ただそれがかえって痛々しいと感じてしまう。副作用は彼女の場合、貧血と口内炎が最も酷いらしく食欲をそがれてしまっていた。そんな時は、利尻昆布と鰹節で丁寧に出汁を取り、茶碗蒸しを作る。口に含んでホッとした表情を見ると、俺も同様の表情をしているんだろう、はにかんだ笑顔を向けてくる美香。彼女にとってたった一口の食事ですら、命を繋ぐ為の重要な事。「食べられなくなる。それが一番怖い」と言う。食物を摂る。俺にとっての当たり前は、美香にとっては命がけの行為なんだ。病と闘う人と暮らし始めて気がついた点は、当たり前に考えていた日常は、実はそうじゃなかったと、自身の生き方を振り返るきっかけになっている。対面に座り、少し嬉しそうに茶碗蒸しを食べる様子を見て、作ってよかったって思う。「ねぇ、そんなにじっと見つめられると、食べづらいんですけど・・・」(´ω`ι)「ん?そう?俺は美香が、美味しそうに食べる姿、ずっと見ていたいんだけどな!」「雅夢の場合、じーっと見つめ過ぎなの!(>д