父親と息子
息子と父親とは、あまり会話の無いものでしょうか?私の主人は まるでアニメ“巨人の星”を地でいくような感じです。特に野球には厳しかったですね。社会人になっても 口うるさく私に言いますが本人は知らん顔をしていました。とにかく子供を褒める事よりしかるほうが多い。私から見ても かわいそうでした。だから急に大樹が亡くなり、「もっと褒めてあげればよかった」「いろいろ話をしておけばよかった」と悔しがりました。『虹の会』の方のブログで タツロウさんのお父様が、息子さんの事を書かれた記事を拝見し、父親としての悲しみが あるのだと本当に思いました。ここに了解を得まして ご紹介させていただきます。息子が残してくれたもの確か2005年11月だったと思う。県○○会の移動理事会が敦賀市で行われた。終了予定時刻が大幅に遅れたため、すっかり夜の帳も落ち、複雑なインターチェンジ構造ゆえ、高速道の入口を見つけ出せずに3~4回どうどう巡りをした後、ようやく狭い進入路を発見した。もう福井に戻れないのではないかとの不安が頭をよぎった途端であった。真っ黒い北陸自動車道をゆっくり北上した。そのうち暗闇の中に武生、次いで鯖江の町の明かりが見えてきた。不意に、いつだったか今と同じように“郷里に戻ってきたのだなあ”というある種の安堵感の混じった懐かしさを経験したことが思い出された。幾許もせず、10数秒かもしれないし、1秒以内であったかもしれないが、“あぁー、あの時だったのだ”と思いついた瞬間、とめどなく涙が溢れてきた。3年前の10月17日、次男のなきがらを乗せて東京から東名高速~名神高速、そして米原より北陸道へと入り、夜の9時頃に妻と一緒に福井まで移送して頂いたのだが、武生、鯖江に至って、このあかりを見て「タツロウ、家に帰って来たよ」と何度も囁いた。この時の名状しがたい感情が思い起こされてしまった。そういえば福井から金沢方面へ足を運ぶことはあっても、北陸道を南下することはなく、今回の移動理事会が唯一の機会となった。心の片隅に移送と同じルートは避けたいという気持ちがあったことも否めないように思う。一気に突然襲ってきた感慨に戸惑いながら、一方では必死に福井インターに着くまでに泣き止んで、涙の痕跡を家族、特に妻には悟られないように努力しなれけばならなかった。身を切られるほど辛い出来事以降、落莫の日々を送る妻にシンクロナイズして泣き悲しむ訳にはゆかず、見掛け倒しでも涙は見せられなかった。平生ドライブする習慣はなく、せいぜい病院と県○○会館を行き来するくらいであるが、途中で陸橋を越える時、遠くに大きな空と山並みを眺めることとなる。初めの頃はフロントガラスから飛び込んでくるこの風景に接する度に寂寥の思いが込み上げ、多様に姿を変える雲の表情にも触発されて、忽ち涙腺が緩んで困惑した。約3年の年月を要したが、漸くこのような情感のシャワーに晒されなくなり、次男のいない生活に慣れてきた矢先の、強烈な一撃であった。いつの時代でも若者の生態、行動を見て“今どきの若い者は・・・”と年配者は避難しがちであるが、はたしてそうだろうか?この5年余の次男の友人たち(Tatsuro’s Friends,T-Friends)との交流を通して、自分ならば到底できないであろうことを自然体で実践する彼ら、彼女らに心から敬服している。毎月の命日には家に集まってくれる福井のT-friends、鯖江にあるお墓にいつの間にか供えられている生花。9月最終土曜日は京都四条河原町のかつて息子達が議論を戦わせていたという店に行くことにしているのだが、いつも関西在住のT-Friends が十数名駆けつけてくれる。逝去翌年より始めたことであるが、京都、大阪、遠くは神戸の友人たちが在りし日の達郎の思い出を語り、私どもは初めて知る数々のエピソードに毎回新鮮な驚きを見出した。また誰もが認める唯一の欠点(時間に頓着せず、興が乗れば連日の徹夜を厭わぬ集中力とそれに続く他に追随を許さぬ爆睡能力であるが)にまつわる、今だから笑って話せる出来事にも皆一様に寛容と親しみを示してくれているのが不思議であった。東京でも京都に続いて同様の例会を東京のT-Friendsが設定してくれている。このようなT-Friendsが取り持つ縁で知り合って結婚した人や、子連れで参加してくれる人もいて、私には今では三十数人の息子や娘がいる状況になっている。彼らは時おり、京都まで来たからとか、福井ないし石川で仕事があったからとか、種々の口実で我が家を訪ねてくれたり、お墓参りをしてくれる。しかも生前息子と面識のなかった家族を連れて来てくれるのである。感謝の気持ちを伝えると皆さんは異口同音に「タツロウの魅力ですよ」と色々解説してくれる。親の知らない息子の隠れた一面に半信半疑でいると、「だって、いつまで経っても皆こうして喜んで集まってくるでしょう。それが何より証拠ですよ」疑問の余地は全くないと断言する。本当に有り難く、嬉しい評価であるが、こちら側に世界に身を置いている私とすれば息子の側面を知らないままでいるのが常の姿なのにと思う。ついつい朝・晩、仏壇の前で尋ねてしまう。“タツロウ君、どうしていますか?”と。東京、三茶(三軒茶屋)の現場に隣接した歩道の一角には、東京都の許可を得て、小さな『タツロウ花壇』を設けさせて頂いているが、花を絶やさぬように年2回は植え替えのために上京している。ここでも新たなご縁により、現場近くのお寿司屋さん御夫妻とその2軒隣りの未亡人のおばあちゃんが水やりやゴミ拾いなど気配りをして下さり、見ず知らずの方々の厚意に感謝せずにはいられない。東京のT-Friendsや知人が時折ビールや花束を花壇に手向けてくれるのだが、本年春、私どもがまだ上京していないにもかかわらず、花壇に新たな草花が植えてあり、柵までしてあったとの情報がはいった。これまでも厚意の主が特定できないこともあったのだが、後日上京の際、偶然お寿司屋さんの奥様がして下さったことと分かり、感謝・感激で頭が下がった。更にひょんなことから昨年よりもうお一人、強力な助っ人が現れた。クリスマスにはカードとブーケを、正月にはミニチュアの小さな門松を花壇に飾ってくれた61歳の中島誠之助そっくりのラグビーのコーチ兼ミュージシャンの御仁で、自宅より徒歩20分位で『タツロウ花壇』に至る道をT-参道と名づけ、きめ細かく花壇の世話をしてくれている。本年3月末の上京の際には、福井のT-Friendも同行を希望され、渋谷ハチ公前で東京にいるT-Friends二人と合流し、私は妻と三人の娘を連れて、三茶より「松陰神社前」で下車。歩いて花壇に着くと、手袋・スコップ等準備万端の中島誠之助氏が今や遅しと待っていた。お互いに初対面であったので簡単に自己紹介をし合ったあと、花壇を整理し、バージョンアップを行った。その後、皆でT-参道を通って三茶に戻り、その最上階からは東京に出てきた息子の足跡がすべて一望できる私どもの“こころ”のランドマークでもある、キャロットタワーで一服した。夕方、私ども夫婦が次男タツロウとの最後の会食の場となってしまった思い出の居酒屋で、その他の東京のT-Friendsも加わって歓談した。今でも達郎に関する新情報がポロリと顔を出すのを聞くと、彼なりに密度の濃い楽しい生活を送っていた証かもしれないと考えたりする。ある人曰く「人生は短くても、その人にとって十分充実した納得の人生であったと言えるのですよ」と。本当だろうか?突然にいとしい子を失った親の気持ちを慰める言葉として、それなりの説得力もあるが、あくまで一時的安寧を得るのみでやはり惜別の念が勝つ。事故の一瞬、“しまった”という取り返しのつかない思いが脳裏をよぎったに違いない。そしてその瞬間、彼の頭の中を走馬灯の如く駆け抜けたものは何だったのか?自分が中学生の頃、三八豪雪があった。校舎の雪下ろしが終わった後、体育館の高い屋根から飛び降りたところ、固くしまった雪の中に胸まで埋まってしまい、いくらあがいても身動きがとれなくなり、そのうちに周囲が薄暗くなりだした時には焦りと不安が増幅した。今でも鮮明に覚えているのだが、この時せいぜい1~2秒程度であろう、飛び降りて雪に埋まるまでの時間は。しかし、この刹那にも非常に沢山の思いが交錯した実感がある。即ち、時間とは長さではなく、量であると悟った。この体験から想像してしまうのである。彼はどんなことを思ったのだろうか。時折このことがフラッシュバックのように自分を虜にし、激しく胸を締めつける。 5年余、妻は必死に、私もそれなりに努力したが、季節の移ろいは何と云っても大きい力を持っている。次男のいない現実を受容する中で、同居している長男夫婦の子供も1人から4人に増えた。下の2人は1歳に満たないが、上の2人は就寝時には必ず「タッチャン、おやすみ」と言ってくれる。夕食時、卓上の次男の写真の前に必ず一品供えることになっているが、準備不足の時は「タッチャンのは?」と気にしてくれる。一番上の孫でも達郎と会ったのは1歳くらいで当然記憶にないものだから、物心のついた頃にはしばしば「タッチャンはどこのいるの?」「いつ帰ってくるの?」「遠いところにいるんだよ」と答えると、「飛行機なら帰ってこれるところなの?」と矢継ぎ早の質問に困惑させられたが、なんとか凌いできた。ところがある日の次の問いには胸が張り裂け、二の句が告げなかった。達郎の写真を見ながら、「動くタッチャンはどこにいるの?」と聞いたのである。自分だけでなく、家族皆涙ぐんでしまったのが察せられたが、他方無垢な子供の感性の凄さに感じ入ってしまった。笑顔の戻った日常ではあるが、心の奥底では癒えることのない喪失感が払拭し切れていないことが時々露呈する。それでも現状に即し、自分自身に素直に淡々と生きていきたいと思う。5年前がん手術の入院中にはからずも浮かんできた“自然に従う”という諦観に従って。 福井県○○会だより 第565号 2008年7月