カテゴリ:占星術について。
ホロスコープにおいて、ものっそいキワキワみたいなところに星がある人は、そう少なくないだろう。例えば、3室直前の数度前になんか星があって、これは2室と判断すればいいやら、3室と判断すればいいかよくわからないものだ。本とか見ても、2室の◯星をみるべきか、3室の◯星をみるべきか、迷うもの。
そういうものは、だいたいハウス区分をプラシーダスからコッホに変えたりすると、ハウスがかわってしまったりするようなもの。なんでまあ、個人的には、例えばそのように2室と3室のキワキワにあるなら、ちょっと2室だけど3室って感じで考える。そうなると、占い本を参考にするにはむずいッスね。自分で考えなければならない。 自分の場合、そうやってキワキワにあるものとしては、ノースノードがそれにあたる。星座ははっきりしているが、2室だか3室だかわからないところにあって、プラシーダスなら2室ラスト、コッホなら3室がっつりになる。 自分が中学くらいから見てもらってた占星術家さんが、コッホをつかってやっていたので、自分はずっと「自分のノースノードは3室」というふうな思いがあったし、そういうふうな助言を受けてきた。が、2室の影響もまあ、なくもないのでは、とも思う。だからキワキワは両方考えなければいけない。メンディー。 前世の好きだったことは、今世で嫌いなことになる。サウスノードとノースノードの原理のひとつだ。正確には、サウスノードは「得意で、しっくりくるし、才能をはっきできるし、初級は少なくともとんでもない良い成績なんだけど、途中で異様な阻害を受けたり、どんだけ合理的に考えても他のなにより気持ち的にやる気がでなくなってしまうようなこと」とノースノードは「全く自分には似ても似つかない感じのことで、はじめてやるけど、ビギナーズラックみたいなのが異様にあって、気持ちも高まること」。 シュタイナーもカルマ論の本で同じようなことを言っていた。「今世、こんなふうにはなりたくねえなあ、というものを想像しなさい。それがお前の前世だァーッ!」みたいなことを。(正確には、もっといろいろアレだと思います。) 自分はサウスノード9室です。正直、もう勉強したくない。いや好きな勉強ならガンガンするよ。それはノースノード3室ですから。親からはそのことをいっつもディスられます。これ!これがサウスノード8室っぽい。親は私に9室人間であってほしいんです。そして私自身も、9室がソフトアスペクトで恵まれている学歴コンプみたいな親やその上の家族・その考えがバッコしている地方都市を選んで生まれてきているわけです。親だってその地方都市でバッコしているものの犠牲者なんです。 8室は、継承。サウスノードなら、前世で、誰かの期待に沿って生きてきた。そして9室があらわす学問分野で活躍した。そこから解放されなければならない!親は子に間違った期待をして、サウスノードを押し付ける。本人がその子の幸せを望んでいるとしても、それは私にとってはアンラッキーだ。私の幸福はそこではない。 親から「一番こうなってほしくない私」をきけたなら、私の将来の目標になれるかもしれない。それは私のラッキーポイントかもしれない。8室に限らず、家を表す場所にサウスノードがある人は、同じことが言えるだろう。 9室サウスノードに関して言えば、私はいろいろな「先生」と出会った。尊敬できる先生、才能が本当にすごい先生もいるし、合理的な考え方を持っている人間のかがみのような先生もいれば、才能にあふれてはいるもののあまり尊敬できない先生もいた。が、「今世、こうなりたいか」と言われれば、そうでもない。今世私がこの人たちになったら、そうなる過程で人生が終わりそう、ストレスで病気になって。 「才能」は何割かの確率で、他の何かを犠牲にしている。ただこの世には聖人の天才みたいなのもいて、たいへんな記憶力、理解力、語学力、発想力、説得力をもちつつ、酒もタバコもパチンコもやらないし、見た目にも年に関係なく悪いオーラがない、その上立派な人格もあるような人がいる。そのような2~4割の天才以外に、犠牲の上に成り立つ天才がいる。そういう人のオーラは多少翳りがあるようで、酒かタバコか賭博か、そのうちどれかあるいは全部でもって、ストレスの代償としている。そのため、短命だったり、病気がちだったり、競争的だったりする。それらを犠牲に、天才性を自然に維持している。自分がもしも学問で生きていくなら、自分は前者ではないので、後者の領域が必要になってしまう。だから学問のストレスを抑える強い自虐行為が必要だ。しかし酒もタバコもやりたくないのである。なんだか、天才でありつつ生活習慣が悪いよりは、天才ではないが生活習慣が良いほうが清潔に思えてしまうので。 ともかく、あとはこれはサウスノード9室への助言になるかもしれないが、「学問に期待するのをやめなければならない」。そうしなければ魂の救済はないのかもしれん。いろいろなことを勉強していったら、自分が漠然と考えていた世界の哲学的命題の謎がとけるかと思っていた。哲学や仏教を深く深く学べば、何か生と死に関する大いなる奥義にたどり着けるのでは、と。この考え方は、やはり過去生で求道者的だったことに起因するのだろう。 しかし、どうもそうではないらしい。あるいは、そこの学びは常に3室的であるべきだ。9室サウスノードなら、本当の学びは学術論文ではなく、論文執筆ではなく…そこらへんの本屋で売っている。追求するのではなく、誰かに教えようとするときに、深みに達しそう。 久しぶりに聴いた!10代の頃は、いつもシロップをきいていたものだ。 今はもはや、3室ノードのせいで、身近な全てがグノーシス文献にすら思えてくるかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019.04.15 20:22:58
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