「様」から「さん」へ、そして(上)
クレアが人間界に来て程無い、ある夜。(おつきさまだ)クレアは窓から皓々と差し込む月の光を見ていました。魔女界の月とは似ているものの、やはりどこか違う、人間界で見る笑う月。(ここは人間界…)あらためて、そのことを実感するクレア。こっちに来て出会った、人間達。だいたい予想していた通り。でもやっぱり少し外れていたところもあった。考え方とかが、やっぱり違う。その違いだけが、やけに何か引っ掛かる。イヤではないけど、違和感がある。たぶん、ひと月もすれば慣れると思う。でも、もし慣れなかったら?うっすら感じる不安。そんな状況で、一年間いろんなことを学ばなければならない…「一年…か」はぁ…と、小さくため息をつきました。(ちゃんと…何かを得られるのかな…)そして、ふと呟きました。「ねぇお母さん?…あ」(お母さん、いないんだよね)窓から覗く月。その月の笑う顔が、だんだんと母親の顔に思えてきます。「お母さん…」いつも近くにいて、見守ってくれた母親。もちろん血の繋がった母親では無いけれど、大事な、一番大切で身近な人。その人とは全く別の世界に、一人で来ている。そう、一人で。(独り…)「ひとりぼっちなの…かな…」出口のない螺旋に陥るクレア。(会いたい……帰りたい)そう思えば思うほど、寂しさが込みあげてきました。(さびしい…おかあさん…)止まらない涙。枕に顔を埋めます。そしてぎゅっと握り潰すように、枕を抱きしめました。押し殺した嗚咽。(ひとりぼっちはやだよ…)不意に、強く閉じた瞼の裏にある人の顔が浮かび上がりました。同じ魔女の、しかも憧れの人でもあるマジョリズム。「あ」(…そうだ。今日はりずむ様がおられる…)今夜は魔女界に行かず、MAHO堂の、隣の部屋で寝ています。(もし、一緒に寝させてくれたら、寂しくない)枕から顔を離しました。「行こうかな…行ってお願いしてみようかな」ベッドの上に座りこみ、ドアの方に目をやります。「でも、恥ずかしい…よね」そう呟いて、小さくため息を吐き、再びベッドに潜り込む…そんなことを幾度と無く繰り返しました。しかし一旦湧き出てきた寂しさ、虚しさは募る一方です。(…やっぱり、決めた)そう決意して、部屋の扉を開けました。なるべく音を立てずに。目の前にあるりずむの部屋のドア。(でも…失礼かもしれない…)扉のノブに手を掛けたまま、心の中でそう呟きました。「ううん、決めたんだから」今度は、そう声に出しました。自分に言い聞かせるように。一歩一歩、できるだけ足音を立てないように近付いていきます。ぎしっ…ぎっ…きしっ…ぎっ…4歩目で辿りついてしまいました。(よし…)クレアはすぅっと大きく息を吸いこみ、また吐き出しました。そして…こん…こん、…震える手で、りずむの部屋のドアをノックしました。するとすぐに、「はい」小さな、でも整った声が聞こえます。「クレアです」「どうぞ」「失礼します」クレアはドキドキしながらドアを開けました。「どうしたの?」薄いミントグリーンのナイトウェアを着たりずむは、ベッドに身を横たえて、少し眠そうな目でこちらを見ています。「夜遅くにごめんなさい」「うん、大丈夫。まだ眠っていなかったから。…で、どうしたの?」そう言ってメガネを掛けました。「りずむ様…あの」少しもぞもぞとしながら呟くクレア。「ん?」りずむは少し首を傾げました。「…えっと…」視線を宙におよがせながら、見つからない言葉を探しています。(あ)りずむはそんなクレアの様子を見て悟りました。「ふふ、いいわよ…」そう言って手招きします。「りずむ様…?」「お母さんが恋しくなったんでしょう?」「!」顔を真っ赤にするクレア。(なんで分かったの!?)りずむは、クレアのそんな驚きさえ読んだかのように、「クレアちゃんまだ八歳だもん。そうなるのは、あたりまえよ」ニコッと笑みを浮かべました。「りずむ様…」「一緒に寝ましょう、ね?」その瞬間、頭の中で何かが弾けたようなような感覚。「は…はい、ありがとうございます」緊張のあまり冷たくなっていた指の先まで、一気に血が通いはじめたような、そんな感覚。そんな温かさを噛みしめながら、とことことりずむの元に歩いていくクレア。「さ」りずむは少し体をずらし、クレアを誘います。「失礼します」そういって、りずむのベッドに潜り込みました。「ん」声か息か分からないような声で肯くりずむ。「これ、しまいましょうね」「抱き枕?」「うん」そう言って指を弾きました。ぽん、という軽い音がして、ピンク色の煙と共に消える抱き枕。「…どう?これで狭くない?」「はい、大丈夫です。りずむ様は?」「うん。問題なしよ」「りずむ様って、抱き枕派なんですか」まだ緊張のとけない声音で尋ねるクレア。「派…そうね。クレアちゃんは?」そう言ってくすっと笑いました。「ううん、くれあは使ってません」「ぬいぐるみとか?熊の」「えっ?」再びぴくっとするクレア。「…いいえ、こ…子供じゃないですから」「そうね」もう一度くすっと笑うりずむ。・・・りずむの体温で温まったベッド。(すっごい幸せ)隣にはあこがれのマジョリズム。クレアはちらっとその横顔を見ました。その視線に気付いたりずむは、囁くように話し掛けます。「ねえクレアちゃん」「はい?」「…誰かと一緒に寝るのって、わくわくするわよね」「はい…そうですね」「なんか、お泊まり会みたいなのって久しぶり」りずむはずっと昔、初めて人間界に来たときのことを思い出していました。初めてのお泊まり会。(あの時も、ここにあったMAHO堂だったな…)「ほんと、久しぶり」クレアは、りずむの白い頬に目を遣りながら尋ねました。「これまでの留学生さんたちは?」「みんな大きかったから。一番若かった子で15歳、大体27-8歳だったからね。…さすがに一緒には寝られないわ」くすっと微笑むりずむ。「なんで?」不思議そうな顔で見るクレア。「え!?」りずむは一瞬言葉につまりました。「なんで?って…」(そっか。クレアちゃんまだ子供だから…)注意深く言葉を選ぶりずむ。「変な噂立っちゃう…って…あー…大人にはいろいろあるのよ」しかし結局上手い言葉は見つかりませんでした。「いろいろ…ふーん…」その曖昧な説明に、未だ納得いかないというようにりずむを見るクレア。不意にりずむは思いつきます。「あ…あぁ、大きかったらベッド狭いでしょ?そういうこと」「そっか、そうですよね」やっと納得するクレア。(ふぅ…)胸を撫で下ろすりずむ。そして息を整え、声を低くして話しかけます。「ねえクレアちゃん」「?」「もし、よかったらだけど」「…はい」「こっちにいる間は、私のこと、お母さんって思って欲しい…な」「…えっ?」思わず声を出してしまったクレア。そのやや過剰とも思える反応に、少し気後れしたりずむは、またまた、あたふたと言い訳を考えました。「あ、あのね…」顔がカーッと熱くなってくるのがわかります。「だ…だって、私一応人間界での保護者だから…」(何を言ってるの私は…??)クレアはその言葉で、強引に現実に引き戻された感覚を覚えました。(あ、そっか。お仕事だもんね、りずむさん)「ああ…そうですね…」残念そうに目を伏せ、少し俯きました。(お仕事だから…)(うっ、クレアちゃんなんか泣きそうだ)その表情を見て、りずむは少し後悔しました。「あ…あのね?」そして体を横に向け、じっとクレアを見つめ、先の言葉に続けるように言いました。「…てのもあるんだけど、クレアちゃんが、私のことお母さんって思ってくれて、もしそれで少しでも楽に、楽しく生活できたら、私も嬉しいから」「りずむ様」もう一度、りずむの顔を見るクレア。月明かりでもわかるほど、頬が赤らんでいます。その視線を受けとめて、さらにりずむは続けます。「私はけっこうドジで…たよりないけど」「いいえ」「今みたいにすぐあたふたしちゃうけど」「?」「…でも、もしよかったら、甘えて欲しいの」「はい…」恥ずかしそうに肯くクレア。「そう、よかった」一安心するりずむ。そして続けます。「前からずっと言おうかなと思ってたんだけど…こうやって、ゆっくりお話しする時間、あんまり無かったものね」「ですね」それに相槌をうつクレア。「うん。で、クレアちゃん」「?」「クレアちゃんは、お母さんのことなんて呼ぶ?」「え?…と、おかあさん」「おかあ、さん」りずむは、「さん」を少し強調して言いました。「じゃあね、私のこと、りずむ様じゃなくって…」「えっと……りずむさん?」「うん、そう呼んで欲しいな」「はい、分かりました。…りずむさん」「よくできました」と、小さく笑うりずむ。「…じゃ、もう休みましょう?」「はい。それじゃ…りずむさん、おやすみなさい」「おやすみ、クレアちゃん」そう言ってりずむはまた仰向けになり、静かに目を閉じました。クレアはそんなりずむの方を向いて、体を少し丸めました。目の前にはりずむの横顔。(おやすみなさい、りずむさん)そうしてクレアも静かに目を閉じました。時計の音だけが響く、静かな夜。久しぶりに二人で眠る、温かな夜。鼻で大きく、すぅっと息を吸うと、柔らかな香りを感じました。うっすらとしたカモミールの香り。さっき入ったお風呂で使ったボディシャンプーの香りです。(くれあと同じ香りだ…あたりまえか…おんなじお風呂に入ったんだから)ほんの少しだけ、りずむの肩に頭を寄せるクレア。(ん?)りずむは目を軽く開けました。(ふふ…)カモミールの香りの、その奥から漂ってくる、りずむそのものの香り。(おかあさんとは違う…魔女幼稚園の先生とも違う……魔女ともちょっと違う……?ふしぎな感じ…)そのクレアを、包むような視線で見守っているりずむ。(お母さんの気持ちって、こんななのかな…)次第に眠りの世界へ落ちていくクレア。「りずむ…ママ」微かな声で、少し恥ずかしそうにクレアはそう呟きました。「…うん」りずむも、少し恥ずかしそうに答えました。クレアがその答えを聞いたのは、夢の世界に入る、ちょうどその時でした。