母親の訪問(三日目)後編
「送っていくよ。」夕方帰る際、電車で帰ることを主張する母と私に対して兄が主張する。電車の方が早い事を理由に断ろうとするが、「変わらんよ。車の方が早いけん乗って行き。」兄の母親への好意を断れず承諾。 これも後から思い返せば想像力が至らなかったと反省している。 その日は土曜の夕方で帰宅者と行楽から帰る車で道は渋滞していた。7時に上映会があり、それに間に合うように帰りたかったのだが、渋滞のせいで予定時刻を1時間半あまり過ぎてしまった。下ろしてもらった後駅前からバスに乗って急いだが既に終了していた。 そこからまた私の悪い所が出てしまった。 私は予定が一つでも狂うと混乱してしまう傾向がある。帰り際雨も降り始めていて洗濯物を干していた事もあって焦ってしまった。そこから家までは歩きで45分。バスは無い。「先に走って帰って洗濯物取り込むよ。母さん、ここから歩いて帰れる?一本道だから大丈夫だよね。」母を置いて小雨の降る中走ってアパートに戻った。母は傘を持っているし、ここには何度か来たことがあるから大丈夫だろうと思ったのだ。これも見通しが甘かった。 走って帰ると幸い本降りになる前だったので洗濯物はさほど濡れていなかった。母の手を煩わせるのも嫌だったので全て取り込んで畳みしまい終わろうとしたとき、母が戻ってきた。「洗濯物、濡れとらんかったと?」「うん。まだ小雨だったから。」「どっか食べに行こうか?」「いや、俺が作るよ。味噌汁残ってるし。」「疲れとらんと?食べいこうや。」「いいよ。なんか作る。主食無いから買ってくるね。」自分は疲れると変に意固地になってしまう。ここにいる間は料理を作ってあげようという当初の目的に固執してしまった。 その結果、有り合せのお粗末なものになってしまった。ままかりの酢漬け(コンビニ惣菜)、冷奴、ビール、チューハイ、フランスパン。しかし、お腹も空いてるだろうから、しかも遅いから消化に良い物をと自分なりに気を遣って急いで拵えたにしてはいいほうだと思う。 しかしながら、母親は料理には一切手をつけず、ずっと携帯でメールを打っていた。 しばらくは仕方ないかなと思っていたが、「おいしいよ。食べり。」と促しても「うん。」と返事をするばかり。しまいには疲れもあってかカチンと来てしまって、「確かにたいしたもんや無いけどさ、俺なりに急いで用意したんよ。何で食べんと?」キレてしまった。 すると母親は突然泣き出してこう言った。「はいらんのよ。」日中は終日観光し、最後に45分近く歩いたのが身体にこたえ、疲れすぎて食事が喉を通らないらしい。「以前はこんぐらい動いても何ちゅーこと無かったのにねぇ。…なんかそれ考えよったら情けなくなってねぇ。…涙が止まらんのよ。」母親は体力が低下しているし、涙脆くもなっている。私達が上京する前はこんなではなかった。「仕方ないよね、母さん、今まで約20年かね?俺らを必死で育ててくれたやん?母さんホント完璧だったよ。俺ら2人そーとー(すごく)感謝しとるんやけ。 今、そのツケが来とるんよ。ね?少しゆっくりしたらまた元気になるよ。俺らを育てるためにそーとー頑張ってくれたんやけん、仕方ないよ。 ごめんね。急かして。配慮が足らんかったよ。ゆっくり食って。ね?」母の涙は止まらなかった。「どうしてやろうね~。他の人たち皆元気なんにあたしだけこんなんちゃね。情けないわ。」母の嘆きを聞くようになったのはほんの最近2、3年の事だ。自分の衰えが情けない。早起きできないのが情けない。祖母にだんだん似てくるのが怖い(祖母は歳をとって性格が変わって気難しくなったので)、こう嘆くようになった。「早く寝よう、母さん。」寝支度を済ませるとすぐに眠りに就いた。 母が嘆くようになったのは、私を一人前の人間と認めてくれたからだろうか?そうだとしたら嬉しくもあるが、また逆に寂しくもある。太陽のように明るくて完璧でいつも私を支えてくれた母親像は子供の目から見た勝手な理想像だったかもしれないからだ。 母さんも影では親父に支えられていた事を今は理解している。しかし、子供の頃見た世界は物事の一面でしかなかったのを知った時少しなんともいえない寂しさを感じてしまうのを否めない。そんな風にして波乱の三日目が終わった。