カテゴリ:小林一茶の部屋
一茶 関連史跡 資料館ガイド
『歴史読本 3月臨時増刊』 「江戸三代俳人 芭蕉・蕪村・一茶」 平成8・3・8刊 芭蕉・蕪村・一茶 関連史跡 資料館ガイド 一部加筆 山口素堂資料室
柏原 一茶はふるさと柏原(長野県上水内郡信濃町)の情景を、
我が門やただ四五本の大根蔵
と詠んでいる。 こういうふるさとも一茶にとって必ずしも住みよい土地ではなかったらしく (「一茶の生涯」参照)、
古郷やよるもさはるも茨の花
雪の日や古郷人のよあしらひ
とも詠んでいる。しかし、帰るべきはやはりふるさとであった。 文化九年(1812)十一月、一茶は長年の江戸暮しに見切りをつけ柏原に帰った。遺産の交渉が主たる理由であったが、健康上の衰えもあった。 そのことはともかく明専寺近くの岡右衛門の借家に住み、これが「つひの栖」になった。
〔一茶記念館〕 黒姫駅前(信越線)の小丸山公園は、一茶をしのぶ事物が多い。レンゲツツジなどの樹々に囲まれるようにして立つ句碑は、
是がまあつひの栖か雪五尺
である。また、丘の上には一茶悌堂(俳諧寺)や一茶記念館、それに一茶郷土民俗資料館が立っている。一茶悌堂は茅葺きの小さな堂宇で一茶の像を安置している。単に一茶堂ともいう。天井にはここを訪れた多くの俳人の絵や句が描かれている。 一茶悌堂の隣にあるのが一茶記念館である。散在していた一茶の遺墨(一茶真筆書翰・句帖・短冊・半折掛軸など)、研究図書(一茶叢書全九巻=信濃教育会編など)、拓本などを収集・展示している。昭和三十五年に設立された。 一茶郷土民俗資料館は柏原宿(北国街道)の豪農山里の住宅を移築したもので、一菜の生まれた旧柏原の民俗資料・古文書などを展示している。地場産業の信州鎌の鍛冶場が復元されている。一茶の作風を知り得る貴重な存在といえよう。 小丸山公園の東隣りに、一茶の菩提寺の明専寺(浄土真宗)があり、墓域には一茶の墓がある。毎年十一月十九日には一茶忌が催される。
〔小林一茶旧宅〕 明専寺のあたりが旧柏原宿である。旧本陣・問屋の中村家の前を通って南下すると、一茶旧宅(国史跡)がさりげなく建っている。 義弟と和解した一茶は、亡父の遺産の半分と賠償金十一両二分をうけ、待望久しかった家庭をもうけ、常田きく(母方の縁者)と結婚、三男一女をつくった。 しかし、子らはいずれも夭折、妻きくも文政六年(一八二三)五月、他界した。 法名妙路、三十七歳であった。 還暦を迎えた一茶自身も悪性の腫瘍や中風になやまされ、病臥することが多かった。句文集『おらが春』は、こういうさなかに生まれた。わが子への愛と悲惨な死を直視したこの句文集は切々と胸をうつ。 きくの没後、一茶は飯山藩士田中氏の娘ゆきを後妻に入れたが、性格が合わず三ヵ月ほどで離別した。 最晩年の文政九年八月、看護のために雇ったヤヲを一茶は三番目の妻として迎えた。ヤヲには倉吉という二歳になる男児があったが、それを引き取り、ともに住んだ。 文政十年間六月、柏原宿は時ならぬ大火に見舞われた。一茶宅も類焼、一茶は焼け残った土蔵に移った。これが国史跡に指定された一茶旧宅である。 大火の年の十一月十九日、一茶は薄倖な六十五年の生涯を閉じた。法名釈一茶不退位。 柏原に帰住後、一茶の俳名は高まり、没後はさらにそれが募った。文虎の『一茶翁終焉記』に、「一茶挙って一茶風ともてはや」されたと見える。 一茶旧宅は、薄黄色の土壁に茅葺きの屋根を載せた小さな土蔵である。裏手には簡素な庵がある。正面の壁は三つに仕切られており、阿弥陀如来像や一茶画像が安置されている。 一茶旧宅の土蔵の巻の趣向をとり入れたもので、かなり絵画的である。
高山
柏原に帰住した一茶は、安定した生活を背景にして、北信濃の門弟たちの間をめぐり交遊を深めた。高山村紫(上筒井郡)の久保田春耕はそういう一人であった。久保田家はこの地方の有産階級で、一茶社中は春耕の力によって拡大したといっていい。 高山村にはこのほか中村弥曾八(久保田家番当役)、梨本稲長、梨本牧人(酒造業)、小出山暁(医師)といった門弟や俳人がいた。
〔高山村歴史民俗資料館〕
高山村には一茶の門弟や知己俳人が多かったので、その遺墨はあちこちにあった。資料館にはそうした遺墨の一部が収められている。一茶の北信濃における俳諧活動を知る上に、貴重な資料といえようか。その他の収蔵品には縄文早期の祭祀器具、石鏃、獣骨、近世の高札などがある。 なお、一茶が滞在した久保田家の別棟が村内に現存している。
守谷
十五歳の春(安永六年-1777)、「掃き出されるようにして」柏原を出た一茶は、江戸の商家に奉公した。以後十年間の消息は不明である。二十五歳のとき二六庵竹阿(葛飾派の俳人)の門に入り、翌年、はじめて「一茶」と号した。 二十九歳のとき(寛政三年)、下総と郷里柏原に旅したのを皮切りに、その後、五十一歳(文致十年)で帰住するまでの間、ほとんど毎年のように長い旅に出ている。 下総、ことに守谷(茨城県北相馬郡)には格別の感懐かあったようで足を繁くはこんでいる。
〔西林寺〕
文化七年十一月十三日、一茶は下総流山から・頭陀袋を首に懸けて、
行く年や身はならはしの古草履
と、うらびれたわか身を句にあらわして西林寺を訪れた。六十四世住職の義鳳(俳号鶏老)は俳友であった。早速、一茶を迎え入れた義風は化六庵で俳句を詠んだ。
行く年や空の名残を守谷まで
西林寺境内の「行く年や」句碑は昭和二十八年の建立である。一茶にとって義風は気の置けない俳諧の友垣であったらしく、西林寺訪問は数度におよんでいる。 江戸の本所相生町(墨田区)で業俳活動に専念していた一茶は暇があれば、流山、布川、馬橋の俳友や門弟の居宅を歴訪した。 下総の扁桃(松戸市)には亡友柏日庵立砂の墓があり、大川斗囿(立砂の子)がいたし、布川(北相馬郡利根町)には門弟の𠮷田月船がいた。布川はまた師森田元夢の出身地であった。 とにかく一茶は、下総を第二のふるさとと考え、定期的行脚とした。布川の徳満寺(真言宗)には、
べったりと人のなる木や宮相撲
という句碑か守っている。
東京 出郷後の一茶は、天明七年ごろまでは、多くの商家(職場)を転々としたようである。俳諧師を志すようになっても住居は定まらなかったらしい。 「元禄の昔の惟然坊のたぐひにて、上野の坂本町、本所番場にいほりし折は、昼も行燈をともしおきて煙草火にかへ云々」(一茶発句集 序) いずれにして一茶は文化十年までは江戸に住み、浮草のような日々をすごした。手記などによると、上野・本所あたりに住むことか多かったといえろ。
〔炎天寺〕
柏原帰往復も三度ほど江戸に出ている。 いわゆる一茶調の句を完成したのは文化年間(一八〇四~一八)といわれ、炎天寺(足立区六月)句碑の
麦蛙まけるな一茶是に有り
は、竹の塚で蛙合戦を見ての句である。 江戸に出てくると一茶はよくここで句会を開いたという。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年09月05日 22時45分15秒
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