2290998 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

山梨県歴史文学館 山口素堂とともに

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2022年02月26日
XML
カテゴリ:泉昌彦氏の部屋

水害段丘に赤岩(あかや)露頭

 

『駿河、富士、下部金山』

 

   泉昌彦氏著 『信玄の黄金遺蹟と埋蔵金』

   一部加筆 山梨県歴史文学館

 

富士川の東部の山から対岸を見ると、中富町をつきぬける国道五二号線に沿って、西島、手打沢、切石、夜子沢、八日市揚、飯富(おぶ)と、富士川の河床と段丘にそれぞれの集落がひらけている。さらに早川橋の右岸にそそぐ遅沢、福原川の河口と段丘にも集落がある。

 このうち右から手打沢、寺沢(切石)、夜子(よご)沢と、三

つの沢が、ほとんど真直ぐに富士川へ落ちこんでいる。

この各集落は、富士見山(一六四〇メートル)山塊を振り分けて早川町と接している。

富士見山は、巨大な山塊が三方に支脈を蔓延(はび)こらせて、この段丘に各集落があるのだが、この富士見山は、

御殿山(一六七〇メートル)、

十谷峠(一四六三メートル)、

源氏山(一八二六メートル)、

櫛形山(二〇三二メートル)

 

と、名だたる南アルプス連峰につながっていく。

 

懇田千軒は、これらの尾根と袖をわかって、一二九四メートルの無名緑、九二二メートルの山王嶺の方へ伸びる急峻の山波の頭(荻嶺)にある。

 国道五二号線の切石部落にそそぐ寺沢に沿った山道を喘ぎあえぎ三・ニキロ車を走らせると、久成という部落へつく。たった二軒、目につくだけの超過疎の部落から、さらに車が逆立ちしそうな急坂をのぼっていくと「樅」(もみそ)という二戸ほどの部落がある。

荻嶺は、久成からまだ一・四キロほど登りつめなければならない。

 墾田は、久成部落まで一挙に金田千軒を埋めた山津浪によって段丘ができて、そこに農地が拓かれたものだ。それ以前は深い峡谷になっていたものだということは、地形上から判断できる。

現在はコンクリートの堰堤をいくつも追って急流を宥(なだ)めているが、追い詰められた山民の生活が山を破壊しつづける以前の寺沢は、堰堤がなくても淵あり、滝ありの自然の作り出した峡谷であったことが想像される。

 

久成の取っ付きと、寺沢で化石を採集したことで、ホッサ・マグナによる海溝は、こんな高所まで海水が影響していたことがはっきりと分かる。

 久成部落の懇田の尻にある「寺屋敷跡」の門前に当たって、馬頭観音を祀る自然石があり、石塔もあるというが、ひどい藪であきらめざるを得なかった。ここでも二個の貝の化石を拾ったのは、この寺沢がコソクリートの谷にかわる以前は、美しい貝の花咲く谷であったことを偲ばせる。自然保護、文化財保護の立場から、中宿坊籍の化石についてはペンをさかざるを得ない。

 

手打沢、夜手沢ともきついカーブがなく、寺沢とも真直ぐに富士川へ突進しているので、現在まで鉄砲水が出て、山民はこの山崩れと水害との苦闘を重ねている。

 大きな山津浪で、金掘りのいた金田が一挙に埋没した、という口承も、地質、地形を調べた結果、充分論拠を遺している。今にも頭から山崩れが起こるのではないかとヒヤリとさせられる急傾斜の山腹は、もうこの付近の山々が自分の足で立っていられず、人間の作ってくれたコソクリートの堰堤や石垣というつっかい棒にわずかに身をまかせているといった老化ぶりだ。

部落で車の轍(わだち)をはずしたとき、下を見たら千尋の谷であったが、車の通れる道幅一杯の路肩から目も眩むような谷底まで、一本一草もない赤土のガレが垂直におちこんで、路肩を欠

いて崩壊が追っているのには鳥肌立った。

 もろい凝灰岩、砂岩、泥岩が風化して崩れ易い砂礫層をなしているが、久成部落の荒地で槙本の手入れをしていた佐野猛氏が、若者の捨てた大地を孤独をかこちながら守っているのにはホロリとさせられたが、この佐野宅の入口の崖に真赤な赤岩(マンガソ)が露頭していた。

 これで懇田の下には、砂綴にまじった自然金があっても不思議ではない。砂金から出金と撰っているうちにマンガン鉱へ突き当たるという鉱山学上の常識から、金田が上古における黄金山であったという伝承がますます真実につながってきた。

 さらに荻部落の右方の山王嶺続きに、佐野氏の子供頃は、古い間歩のロが八つほどわずかに痕跡を残していたというから、もう数十年も前のことだ。ここにもはっきりとした稼行の証しがある。ただし古い間歩は、入口が崩壊してふさがれると、地下水と泥土が蓄積して耐え切れずに、やがて一気に巨大な山津浪を起こす。そのおそれは、ここにもある。

 明治初年からの鉱区一覧は、大正年中まで甲州文庫にあり、それ以前の江戸時代のもかなりはっきりと分かっている。

 東西の河内領にどれだけの間歩が隠されているかを、明治の末、大正の中期、昭和四十八年度の三段階に分けてのちに記して、災害防止の目安とし、併せて懇田千軒は、金掘り千軒の金田の方が正しいかどうかの目安にもした。

 

  金田はあった

 

寺跡の付近も、掘ればもっとくわしい様子が分かるのだが、これは難しいことであるから、別の角度から当ってみると、金田子軒から移住した家譜が浮かび上ってきた。

 埋没によって移住したのは「平須」「古屋」「手打沢」「中野」(寺沢)の名が挙がっている(同町誌)。

また懇田には「金錫場」の跡という古名の遺跡もある。

 さらに懇田の塚原は昔の金塚で、金山護神(金山彦命)の跡だといわれるし、移住した手打沢には鋳物師屋(いもじや)の小字もあり、中野には「金山様」という屋敷神もある(町誌)。

 

 文書としては、寛永十七(一六四〇)年に、兵左衛門、角左衛門、前之丞、伝兵衛、伝左衛門の五名が、武田時代から慶長年中にかけて御用金の採掘を仰せつかった旨の印書が平須の幡野力氏宅にあったというので探してみたが、本人は二、三十年まえに移転して町誌にも出典がないので、現在のところは手がない。

 また明治二十八年に曙村の佐野幸作と大須成村(現中道町)の秋山助蔵の両名が金試掘の願いを出したという文献(矢細工・佐野三郎蔵)は、甲州文庫の鉱区一覧表に照らせば判然とする。

 

 さて、ここで前橋に出典した『王代記』を、もういちど思い出して頂きたい。

 明応七(一四九八)年壬十月、此年八月廿日

「大雨大風、草木折、同廿四日辰刻、

天地震動シテ国々所々損。

 金山クヅレ、カカミ(加々美)崩レ中山損」

の中山を、筆者は下部の中山より、中富町中山が河内領の中山諸村をくるめた古称の中山十二村(甲斐国志)の中山と思う。

そうすると、金田はこの王代記に見あってくる。

 筆者が、塩山市落合部落の黒川鶏冠出入口のローム層から、石器時代遺跡から出土する黒曜石製の石ナイフ剥片石器を表面採集したように、この中富町内でも、無土器時代から農耕社会に移る過程の幅広い土器、石器が、平須を主に荻、矢細工、堂平など、いわゆる金山のあったと判断できる山地の段丘から多数出土している。

 してみると、黒川鶏冠山金山同様に、数万年前には狩猟採集生活者が、こんな山深い段丘に先住者として土着し、現在のタイプにまで進化したものとして、甲斐の出尻の古い人間の歴史を伝えている。

 この原始時代から土着した山民の歴史の中で、黄金はいつ頃から産金されるようになったかは、なんらの文証拠がなくても、これまでに述べた諸点で判断がつく。

東西河内領の黄金山が、王代記の「金山クヅレ」にも五百年

前には、駿河金山に遅れず稼行されていたものだという点も、おいおい明瞭にしていきたい。

なお、王代記の

 「カカミクヅレ、中山損」の加々美は、河内領は甲斐源氏の加賀美氏一族の所領として、甲斐国志にも、

「加々美荘ハ巨摩西郡筋ニ加々美村(若草町)ナリ、

法善寺ノ境内、スナハチ遠光(加々美の祖)

ノ館跡ナリ、

河内領八日市揚(中富町)ノ大聖寺ニ影像ヲ置ク……」、

とある。

 

大聖寺の開創にあたって、遠光は加々美、川西、中山を寺領に寄進した。中富町が東西河内領とともに、鎌倉初頭すでに加々美一族の所領であったことは、甲斐国志にも

「東西河内領トモニ西部(南部町、万沢町、富沢町)

へ引続キタル地ニテ皆加々美氏ノ伝領ト見エテ

古址ノ存スル事モアリ、

故ニ南部、下山ヲ姶メ氏族多ク分拠セシ趣ナリ、

士庶部ニ記ストコロノ帯金、狭野(佐野)、

万沢、岩間、三沢ノ諸氏モソノ家ニ

縁アランコトヲ疑ヘドモ、イマ訂正ノトコロナシ」

とあることでもわかる。

 

これよりさきの系譜は、加々美氏より秋山、小笠原、於曽、波水井、下山である。

 この点で、鎌倉時代以後は加々美氏一族が四方に分かれた。そうすると、王代記の「加々美クヅレ」は、河内領方面の中山の十二村にあった金田千軒となってくる。

 

山梨に在った石炭・石油

鉱山の一斉巡見「甲斐国金銀山、石炭山々巡見日記」  

 

明治二年、新政府発足後まだ日の浅い八月、東、西河内領において、外人のシャロウェイ、ペユロの二名によって、鉱山の一斉巡見が行なわれた。

その時の随行者高橋平右衛門の

「甲斐国金銀山、石炭山々巡見日記」

も、この方面の金ヅルに対しての資料となるので、ざっと記しておく。

○八月四日 

天気、甲府出発、鰍沢泊り。

○八月五日 

天気、舟で切石宿へ着き岩蔵屋へ泊り。

○八月六日 

切石出発、早川入り。

保村ヘー泊して翌日

天金山へ登山して石色持ち帰り、

理数を見おける。

七ツ時下山、雨畑長百姓加兵衛くる。

黒川村藤三郎手札、京ケ嶋新絵図差出す。

  石炭山々之儀とも、

才十郎相弁じ候事の書きつけ預けおく。

○八月八日 

雨畑村々へ出状差出す。同日天気、

川路より黒川出張、雨畑村善七、惣七くる。

黒桂村役人くる。

○八月九日 

同日天気、八ツより曇る。

大金山の下、川今さらい出す。

○八月十日

 天気、早川岸より上手滝下河原流金浚い。

早川村忠左衛門酒持参す。

草塩村より京ケ島へ通達。

明後十二目保村出立、京ケ嶋山川一見、

同村帰りのこと。

○八月十一日

 大金山へ登る、拙宿に泊る。

伝十郎宅へ見敷、朝晨庵出張す。

禅宗日府菱伴儀三郎殿来る。保山一泊。

繭卵継持参。

○八月十二日 

鉄次郎、大塩、久成、平須、矢細工、古長谷村、

福原、梨子、笹走、塩之上、昼食平須。

○同日 

泊、大塩村。

 

 と、この巡見日記によっても、やはりこの久成方面に鉱物資源のあることが判断できる。

 ここで明治四十四年頃の鉱区を見ていく。

 

南巨摩郡鉱区一覧

(明治四四・四五年)

(単位 坪)

 

 大須成

○静 川  石炭    219,215

 四 島

○身 延  石炭    351,276

○木 建  金     309.285

○五 箇  金・銀・銅 

      鉛・亜鉛  645、000

○硯 島  鉛・亜鉛  223,058

○西 山  鉛・亜鉛  278,804

○三 里  金     183,912

〇三 里

〇五 開  金     110,838

〇睦 合  石油    206,753

○右 同  石油    203,368

○芦 安  金・銀・銅 

      鉛・亜鉛  281,120

○芦 安  金・銀・銅 553,585

○穂 積  マンガン  424,250

○同    金・銀・銅  91,235

○都 川  金     165,420

○同    金・銀・銅 146,038

○同    金     141,750

○同    金     559,593

  ○平 林  金・銀・銅 330,373

   増 穂

○落 合  マンガン  114,050

 

以上に対し、大正七、八年になると、がぜん膨れ上がる。

スペースの都合で概算を示す。

      鉱 区 件 数

○硯 島    十九件  金・銀・銅

○都 川     九件  金・銀・銅・水鉛

○西 山   ニ十一件  金・銀・銅・鉛・亜鉛

○三 里     六件  金・銀・銅・鉛・亜鉛

〇穂 積     四件  マンガン

○富 河     一件  石炭

○鰍 沢     一件  マンガン

  ○本 建     三件  金・銀

  ○豊 岡     二件  金・銀・銅・水鉛

  ○静 川     二件  金・銀

  ○曙       二件  金・銀

  ○下 山     一件  金・銀

  ○大須成     一件  石炭

 

他に阿倍の井川  二件  金・銀

○古 関    十一件  金・銀・銅・重石・亜鉛

○富 里    十七件  金・銀・マンガン

○上・下九一色村 四件  金・銀・銅

○久那土     二件  金・銀・銅

○栄       二件  金・銀・銅

○落 合     二件  金・銀・銅

 

宮原・葛龍沢・山保・富士郡裾野三件、駿州上井出の一件は、それぞれ、金、銀、銅、鉛などである。抱きあわせのため、東西河内領以外のものも数件ある。

 

これらの鉱区権も、昭和四十五年から、さらに東西河内に鉱区が激増して、昭和四十八年度は県内しめて九十七件のうち、東西河内領の旧金銀山へ五十三件の鉱業権が設定されながら、一件も掘っていないのは、開発目当てであろう。

 

 以上のうち、一部を除けば、大方武田時代に稼行されたものだ。この点も、信玄時代に異常に開発された甲州の地下資源は、有能な見立師、金掘りによって、すべてさらけ出されている。

 

ここで、金山のあった村々の苗字をざっと拾っても、わずかに残された戦国時代の判物、筆録によっても、金掘りの系譜は明瞭である。

 この点は、丹波山や一之瀬高橋の苗字は、すでに金掘り関係の文書で鮮明にされたとおりで、早川、中富、下部、駿河金山の梅ケ島などに多い苗字は、金掘りの系譜につながってくる。苗字帯刀右府されたことは、山法書で述べた。

 田辺、風間、中村、依田、望月(最も多い)、佐野、古屋、志村、竹川、太田、野中、松木、保科、小岩、新井、川村、芦沢、村木、林、渡辺、佐藤、石川、大森、深沢、赤池、目、戸田などの各姓は、すでに本橋中にも金山関係の印書や覚などの文献で挙がっている。

 

 これも前橋で挙げた水戸の水利で功のあった永田茂衛門(黒川金山衆)の永田姓、佐渡の金奉行になった石和町鎮目の鎮目維明、豆州金山下役となっていた渡辺久郡(石和)、やはり豆州金山で大久保長安の家老として不正に連坐した戸田藤左衛門、信州の川上金山の奉行風間一角の風間姓と、拾い出されたこれらの苗字は、甲州にもっとも多く、ことに黄金山には、かならずこれらの苗字

がでてくる。

 

武田一氏そのものが、金掘りの武士団とみる筆者の目からは、その黄金山のツルを全県下に張りめぐらせていたのである。各村々にある前記の苗字は、いわゆる当時としては進歩的な武士団であった金掘りの流れとみて、卑下することはないのである。それは各自が胸に手をあてて、わが先祖から伝承の家譜を考えてみればわかることてもある。

 

このうちでも望月、依田、佐野の三姓は、遠く駿河金山から黒川金山、早川、下部、信州梓川と、武田黄金山あとにもっとも多く分布している金掘り筆頭の家系だ。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2022年02月26日 06時29分23秒
コメント(0) | コメントを書く
[泉昌彦氏の部屋] カテゴリの最新記事


PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

山口素堂

山口素堂

カレンダー

楽天カード

お気に入りブログ

9/28(土)メンテナ… 楽天ブログスタッフさん

コメント新着

 三条実美氏の画像について@ Re:古写真 三条実美 中岡慎太郎(04/21) はじめまして。 突然の連絡失礼いたします…
 北巨摩郡に歴史に残されていない幕府拝領領地だった寺跡があるようです@ Re:山梨県郷土史年表 慶応三年(1867)(12/27) 最近旧熱美村の石碑に市誌に残さず石碑を…
 芳賀啓@ Re:芭蕉庵と江戸の町 鈴木理生氏著(12/11) 鈴木理生氏が書いたものは大方読んできま…
 ガーゴイル@ どこのドイツ あけぼの見たし青田原は黒水の青田原であ…
 多田裕計@ Re:柴又帝釈天(09/26) 多田裕計 貝本宣広

フリーページ

ニューストピックス


© Rakuten Group, Inc.
X