「まさか、[日本人のおなまえっ!]という番組で、
日本人の時間に対する正確さのルーツを聞くことになるとは、
思いもしなかった。
考えてみたら時代劇では、
子の刻とか丑の刻といった時間の表現をしているわけだから、
江戸時代にはまだ、大雑把な時間の概念しかなかったわけである。
「刻」って、どういう単位?
時間の単位に十二支を使っていた時代である。
一日を十二で割って考えていたということは、一日が24時間だから、
子の刻から丑の刻までが2時間ということになる。
分とか秒単位で動いている現代社会から考えると、
到底想像できない生活だということになる。
江戸時代でもお侍さんたちはお勤めをしていたわけで‥。
ということは、あれっ?どうなるの?
なんと!それが2時間位は遅刻にならなかったと言うではないか!
出社の刻が決められているが、その刻の幅は2時間有るわけで、
その次の刻にならなければ遅刻ではないという考えになるようだ。
そりゃぁ理屈ではそうだけど‥とはいえ、武士の世界は縦社会。
絶対そんな風に都合良く、遅刻を許したとは思えないが‥。
セイコーミュージアムが、東京墨田区にある。
あの時計メーカーのセイコーである。
そこには入口に徳川家の家紋が置かれていた。
そこにある時計は和時計で、時計の針は1本だけだったのだ。
江戸時代は「一刻」という単位しか、使用していなかった、
分の単位は無かったのである。
では、何時どうやって分の単位が生まれたのかと言うと、
文明開化で外国との交流が活発になったことで、
福沢諭吉が広めたようである。
というのも、幕末の頃ヨーロッパから来た人が日本人と約束すると、
日本人が約束通りの時間に来ないということで、
多くの外国人の反感をかってしまったからだった。
当時、和時計で動いていた日本人は、遅刻常習犯ばかりだったわけで、
外国人は日本人の遅刻する姿に、大変ご立腹になった。
つまり、外国人との摩擦を避けるために「分」を広めたのである。
それを後押ししたのが、鉄道だった。
列車の発車する時間の5分前に、駅の外で鐘を鳴らし、
更にその後発車2分前にはホームで鐘を鳴らしたという念の入れよう。
それまで移動は馬車とかカゴだったわけで、これらは個人の乗り物である。
それに比べて列車は沢山の人たちを運んでいく。
個人の事情で走らせるわけでないから、
そこに統一した時間の概念が必要となった‥と思ったけど、違うかしら?
また、列車という新しい乗り物を広めるわけで、
何事も最初が肝心、という考えで、
正確に列車を走らせたのでは?とも思った私である。
こうして明治政府は、日本人の時間の概念を変えていったのである。
こうすることで日本人に「分」という時間の単位が生まれていった。
今ではどこの国よりも正確な時間で動く国民となったわけである。
なんとなんと‥まだ最近の話しなんだ‥。
日本人は農耕民族だから、
日の出と共に動き出し、日の入りで作業を終えることを考えると、
刻という単位すら、不確かなものだったと思う。
夏と冬とでは、日中太陽が昇っている時間が違うからである。
どうやら夏は一刻が2時間40分で、冬は1時間50分だったらしい。
冬は夏ほど働かなくて良かったことになる。‥面白い!
私が会社に入った40年前は、最初の頃まだタイムカードが有った。
アルバイトやパートでは、タイムカードが当たり前だが、
正社員でも昔はタイムカードが有ったのである。
いつの間にかそれも無くなったのだが、
だからといって誰も遅刻をしては来ないわけで、
日本人は時間をとても意識した生き方をしていると言える。
時間に正確なのは日本人特有で、さも昔からだと考えていたけれど、
これもまだ最近培った時間の概念なんだと、
認識を新たにした話しだった。