良書との出会い
青山俊董(しゅんどう)尼の「新・美しき人に」を読みました。 著者は曹洞宗(禅宗)の尼僧さんで、長野県の無量寺でご住職をなさっています。数年前に縁あって著者の書物に巡りあって以来、すっかり魅せられてしまい、この本を含め10冊くらい愛読書があります。この本もこれまでに何度も読んでいるのですが、折に触れ読み返しています。著者は昭和8年生まれといいますから、御年75歳くらいの方なのでしょう。言葉の表現がとても美しく、素人にも分かりやすい具体的な例を示して、道元禅師=お釈迦様の教えが紹介されています。人生観が変わるほど、いろんなお話が紹介されているのですが、その中のいくつかをご紹介したいと思います。◆幸せというものを自己の外側に追い求める限り、ついに永久に出会うことはできないのであり、それはむしろ、自己のうちに具わっているものに気づかせていただくことであり、また幸不幸は受けとめる側の心の姿勢がどうなっているかだけの話である。◆人の口の言うものは、黙っていればいたで、あの人はダンマリヤで何も言わないと悪口を言うし、たくさんしゃべれば今度はおしゃべりだという。どうあっても悪口を言うのが人の口というものだ、そしられるだけの人、褒められるだけの人などというものは、かつてもなかったであろうし、これからもないであろう。そんな無責任な凡情の人の目にわが行動の基準をおかず、人として道としてなすべきかなさざるべきかである。◆生まれて以来こんにちまで何を思い、何を語り、何を行為したか、その行為の全てが一部のごまかしもなく今の私の顔を作り、姿を作り、人格を創りあげてきている。明眼の人が見れば一目でそれまでの歩みの全てが見通せる。生まれたその日から、目に見えぬ彫刻刀で自ら彫り続けてきた自分の顔が、化粧や衣装ぐらいではごまかすことのできない美醜となって外に現れる。◆私達はずっと生きておられるような錯覚の中で、何も今日しなくても明日がある、何も今回の機会を無理してつかまなくても、またという機会がある、という思いの中で、果てしなく「今」をとり逃し続けている。◆蓮華は泥田の中に身を横たえながら、その泥を肥料として吸収し、昇華してあの美しい花を咲かせるように、人生の苦しみ、悲しみから逃げては花は咲かない、その只中にあって、むしろそれを材料とし、それをかけがえのない肥料として花を咲かせよ。かいつまんでごく一部だけご紹介しましたが、心に染み入るような話が、説得力のある表現でいろいろ紹介されています。人との出会いは人生を大きく左右することがありますが、良書との出会いもまた同様ですね。