東海道を歩く 箱根宿編<訂正あり!>
昨日、13日(土)は「東海道を歩こう(ガイドと歩こう)」に参加してきました♪今回はいよいよ箱根宿。畑宿から元箱根まで歩いてきましたよ。畑宿までは箱根湯本からちょこっとバスに乗ります。ガイドさんに聞いたところこの日は200名弱の参加者だったそうで路線バスもすっごい混雑してしまいました^_^;畑宿の一里塚は江戸日本橋から23番目の一里塚だそうです。ここで受付をし、準備体操をしてから出発!さっそく坂です^^;橿木坂(かしのきさか)現在は階段になっています。橿木坂は東海道中最大の難所と言われていたそうです。「新編相模風土記稿」に「峭崖に橿樹あり、故に名を得」とあります。峭崖とは高く険しい崖のことだそうです。また「橿の木の坂をこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と書かれているそうです。・・・はい、苦しかったです。箱根駅伝の山の神、すごいですね、ここを颯爽と走るとは^_^;↑よく考えてみたら箱根駅伝のコースは旭橋などアーチ型の橋をこえ、函嶺洞門を通り塔ノ沢から入っていくコースでしたよね。どちらにしても芦ノ湖へはすっごい坂を走り抜けるのですがワタシが歩いた坂は通りませんでした!見晴台雲助と呼ばれた人たちは小田原の問屋場で働く人達のこと。雲助というと悪者のように考えられますがそれは一部の人たちだったそうです。問屋場では人足を登録させ仕事を割り当てていたそうで悪さをする人はいなかったそうです。雲助になるには、力持ちで荷づくりと歌が上手で責任感の強い人が求められ、すぐになれる職業ではなかったそうです。猿滑坂「新編相模風土記稿」には「殊に危険、猿猴(えんこう)といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」猿も滑るほどの急だってことですね。追込坂ふたたび「新編相模国風土記稿」のふりがな(万葉がな)によれば「ふっこみざか」とも読んだかもだそうです。猿滑坂を上り詰めた先のやや平らに開けた場所を「笈ノ平」と呼ばれているそうです。この場所は親鸞上人が弟子性信房と訣別した所だそうです。ちなみに“おい”とは修行するときに、仏像をはじめとして、お香やお供物、経文、お札など修行に必要なものを納め背負う箱のことだそうです。甘酒茶屋江戸時代初期に創業、400年あまりの歴史をもつ甘酒茶屋。建物自体は立て直しが行われていて、現在の建物は昨年、2009年に改装したもの。はい、以前、箱根に来た時はプレハブでしたもの^^;完全リニューアルした店舗ですが、土間からすべて改修したのにまったく新しくなったと感じさせなくて、昔の雰囲気がそのまま!メニューはうぐいすを食べようと思っていたのについ、個数限定という表示にひかれて・・・ちなみにワタクシ、甘酒は苦手なんですσ(⌒▽⌒;)於玉坂元禄15年、伊豆大瀬村の農家の娘、お玉が関所破りで捕らえられ、獄門の刑に処せられた場所。お玉は元禄15年(1702年)正月、江戸に奉公に出たそうです。その年の2月、何かの原因で、とにかく家に帰ろうとして関所手形も持たないままこの地に来たそうです。2月10日夜に紛れて関所の裏山を越えようとして捕えられ3か月余りで処刑されたそうです。お玉処刑の話は江戸市中にも広まって幕府の冷酷非情を非難する声があがったそうですが逆にいえば、それだけ関所破りが大罪だということを物語っているそうです。ちなみに箱根関所での関所破りはお玉を含め6件しかなかったそうです。箱根旧街道(石畳坂)江戸時代に開かれた当初の箱根路は雪や雨が降ると泥沼と化しそこを通る旅人たちは足が脛まで浸かって歩くのに大変だったそうです。そこで幕府が石畳の道に改修したそうです。それまではすべりやすい道には「ハコネダケ」を使った竹道だったそうですが毎年敷き替えるのに大変だったそうで、石畳にしたそうです。石畳は路面の保護だけでなく、雨水の排水路も含めた設計にしたそうです。ここで使われた石は二子山から切り出した安山岩がほとんどで粘り気が強く、固いことから石畳に適していたそうです。ちなみに、現在の石畳は皇女・和宮様が江戸に降嫁されるにあたり幕府が改修工事させたものだそうです。先日降った雪がまだ残っていて歩くのは大変でした。でも石畳を歩くのはとても足にも、アタマにも、刺激的で楽しかったな。二子山の展望二子山は小田原から見るとちょうどお椀を2つ並べたように見えたことから二子山と呼ばれたが見晴らし台からみると、四つの瘤を持った山に見えるので「表二子に裏四子」とも呼ばれているそうです。権現坂芦ノ湖が見える一番景色がよい坂。坂の名前の由来は箱根権現(箱根神社)への分かれ道があった所からだそうです。広重の浮世絵「箱根(湖水図)」「天下の険」といわれた箱根の厳しさを箱根の山々をことさら大きく鋭角に描くことで表現しているそうです。この日は富士山は見ることができませんでした。残念!箱根旧街道杉並木元和4年(1618年)、幕命によって川越城主・松平正綱が植林。409本もの杉が連なているそうです。箱根関所元和5年(1619年)、徳川幕府によって西国に対する江戸の防備と治安を守るために設けられたそうです。関所では「入り鉄砲に出女」を取り調べたと言われているが、この箱根関所では、江戸方面からの「出女」つまり江戸に在住の諸藩の大名や奥方など、女性の江戸退出に対する取締りが厳しく行われたそうです。東海道では新居ノ関と並んで最も厳しかったそうです。箱根宿箱根宿は、慶元和4年(1618年)宿駅制の発足から17年ほど遅れて設置された宿場。江戸から10番目、小田原宿と三島宿の中間で天下の険、箱根山越えの便を図るために新設されたそうです。他の宿場町と違って、この場所は、もともと人の住まない箱根山の山上であったため、麓の三島宿と小田原宿から、それぞれ50戸を移住させ、三島町、小田原町という名をつけ三島町は三島代官(後に韮山代官)の支配下にあり小田原町は小田原藩によって支配される宿場町をつくったそうです。一つの宿場に二人の領主を持つ「相給(あいきゅう)」と呼ばれたそうです。これで「東海道を歩こう(ガイドと歩こう)」はとりあえず終わり。でも、日本橋などいくつ欠けているので折を見て、また参加したいなーと思っています。ただ歩くよりも、歴史に触れるのは楽しかったです♪