私の新幹線物語
昨日は小学生の作文のような時系列な書き方をしてしまった。かなり疲れていたので、昨日はお休みで本当に良かった。昨日は10年ぶりの名古屋と書いたが正確には11年ぶりの名古屋。新幹線も11年ぶりだ。そう書くと11年間どこにも行かなかったようだが、特急電車や飛行機には乗っている。新幹線に乗っていなかったのだ。私の母の実家が滋賀県だったので、子ども時代はよく新幹線に乗っていた。こだまかひかり号である。指定席は高いので、自由席。これが、土日の夕方なんて激混みなため、座れず、立っているという非常に疲れる旅だった。幼い私は脚力も弱く、健脚な母や兄のように立ち続けられず、へなへなと通路に座り込んでしまったのを覚えている。母も心得ていて、私は出された新聞紙の上にへたれこんでいた。貧乏ったらしいというか、それも許容されるというところが昭和チックである。小学校3年生のときに、初めて兄と二人で新幹線に乗ったのも覚えている。さすがにこれは指定席だった。なぜかというと、何号車の指定席に乗ったか祖母にあらかじめ知らせておかなければいけなかったからだ。そうすれば大津駅に到着して新幹線を降りたら、そのホームの降りた場所に祖母が待っている…はずだった。時間も母が念を押して祖母に知らせている。祖母は60代くらいではなかったか。まだボケるような年でもなかった。「降りたらおばあちゃんがそこで待っているから」と母に言われていて、私たちは新幹線に乗っていれば大丈夫、という手はずだった。降りたら、誰もいなかった。祖母の家は、そこから多賀線という電車に乗らなければ行けないのだが、私たちにはわからない。あの誰もいない新幹線ホームのことは忘れられない。降りる人も殆どいない。人っ子一人いないホームで、一瞬不安に駆られた。しかし、当時中一だった兄は極度の対人不安があり、知らない人とは口を利けないということをすぐに思い出した。兄には頼れない。「お兄ちゃん、駅員さんに聞こう」と言っても兄はもじもじしている。まあ、こんなことは慣れっこだ。私は駅員を探し、「降りたら待っているはずの祖母がいないんです」と訴えた。駅長室に連れて行かれた。兄は私の後ろに隠れてしまったので、説明はすべて私がした。東京の住所、電話番号、自分達の名前と祖母の名前など聞かれたことに答えただけではあるが。駅員さんは、兄が一言も発しないことに違和感を感じたように私たちを見ていたが、構内アナウンスをかけてくれた。東京から来た兄妹が、祖母を待っているので駅長室に来てください、と。やがて決まり悪そうに祖母が駅長室に現れた。時間を間違えたか、場所を間違えたか、理由は聞いていない。その時、駅長さんが「下の女の子はえらくしっかりしてますなあ」と私を褒めたのが祖母はちょっと気に入らないようだった。祖母は兄の対人恐怖症を知らなかったし、明治生まれだから、女の子が兄を差し置いてペラペラ喋っていたなんてとんでもないでしゃばりだと思ったのだ。だって、兄は知らない人が極度に苦手なんだから仕方ないではないか。それでも祖母が来てホッとした。さすがに自分だけではローカル線の多賀線なんて乗りこなせない。昔は本数も少なかったし、乗り変え方もわからなかった。祖母は私が兄を差し置いて生意気だと母に文句を後日言ったが、母も兄が喋らないのは百も承知。私が説明せざるを得なかったのは当然のことであり、それよりあんなに言ったのにホームにいなかったとはなにごとだと母は言い返していた。あれは9才のときだから、53年も経ったのか。駅長さんからしっかりものと褒められた女の子は、名古屋でも迷いっぱなしのボケばあさんになっていました。無事に帰って来られたのは友達がしっかり者だったからです。私はばあちゃんに似たのだろうか。今でも新幹線に乗るとドキドキする。「名古屋の次は京都です」なんてアナウンスされるとヒヤッとする。降り損ねて京都に行ってしまったらどうしよう!京都の日帰りもできないことはないが、乗り過ごしたら、修学旅行以来行ったことのない京都になってしまうのだ。名古屋で降りられたときはホッとした。帰りの新幹線は安心。乗り過ごすことはない。終点は東京なのだから。そして相変わらず、指定席をケチって自由席だったが、無事に行き帰り座れた。今時、新聞紙の上にへたれこんだら、ただの変人なので、空いていて本当に良かった。私の友達、ご苦労様。高校の友達なので私の方向音痴は熟知してくれているので本当に助かる。9才のとき、しっかり者と言われたのに、駅長さん、人を見る目がありませんでしたね。いつか、京都や滋賀県にもまた行ってみたいんだけど…兄は対人恐怖症だったけど、兄との夏休みは本当に楽しかったから。私の京都行きは付き合ってくれる人がいなさそうです。だって、私が行きたいのは祇園なんだもの。これも理由を書くと長くなるから、私の新幹線物語はこれでおしまいです。