身代わりになるペット達?
昨日、帰宅した。帰省中、母がぽつりと言った。「シロは旦那の身代わりになったのかもねぇ。あれから1年経ったことだし。」1年経ったというのは、ここではお馴染み「いらんことしぃ」こと旦那の、突然の入院である。思い起こせば、そう。1年だ。昨年の今頃は緊急入院から数日が経ち、少し回復の兆しが見えたものの、スパゲティーシンドロームに陥り、ICUのベッドで暴れた為、止むを得ず麻酔で眠らせた頃だっただろうか。大動脈解離で死ぬか生きるか日々、悶々としていたように記憶する。「シロは身代わりになんかなってない。」と頭の何所かで否定する私が居た。心筋梗塞、大動脈解離、胃癌で胃を全摘出してもタバコが止められないニコチン中毒患者の為に、どうしてシロが身代わりにならねばならんのだ?葬儀場から帰途に着いた道すがら、轢かれたばかりの猫を見かけた。見過ごして通り過ぎることが出来ないので車を路肩に寄せて止め、その時は後続車に潰されないようにと道路脇の草地に移動させるのが、その時に私のできる精一杯のことだった。見渡しても近くに民家が無い。このところの陽気に誘われたか。真新しい淡いグリーンの革の首輪をした茶シロの雄猫だった。まだ若く3、4歳くらいだろうか?新年を迎えたので首輪も新調してもらったのだろう。温もりのまだ冷めやらぬ肢体を抱えて祈った。帰らぬこの子をどうか飼い主が見つけ出してくれますように。そう願いつつも、眼球の飛び出したあの子を飼い主が見たら言葉を失うであろう。釈然としない思いを胸に翌日、同じ道を通ったときには既に彼の姿は無かった。よくペットが身代わりになったという話は聞かれる。心の何所かで肯定して不安をかき消すこともできる。でも、何所かで納得のできていない自分も居る。帰宅後、ふくが私にベッタリとくっついて離れなかった。最近の彼女は抱っこされているとご機嫌だ。乳腺腫瘍の二度目の手術は行わない事になった。進行癌の再発は、非常に悩ましい選択をしなければならない。手術して患部を摘出し続け入退院を繰り返すか、自宅で最期の時まで自由に過ごさせるかである。ふくの年齢、体力、性格を含め、医師と相談した結果、私は後者を選んだ。終末期医療のあり方は人も動物も様々であるが、私自身がそうなった時も後者を選ぶだろう。一瞬、一瞬を全力で生きる彼等にとっての「今」がどれほど尊いものか考えさせられるこの頃である。