鬼人間
鬼人間 或る夜に私は酒場で、自分は鬼だという人に会った。その時の私は鯨飲してかなり酔っぱらっていたので、本当にそんな人間に会ったのか、それともアルコールの霧が漂う脳の幻覚だったのか、今となっては定かではない。記憶の糸を手繰り寄せてみると、彼はこんなふうに語ったのだった―― よう、相棒。俺様は鬼だ。外見は人間だけど、本当は鬼なんだ。俺のような鬼人間はこの地球上にごまんといる。俺だって元々は普通の人間だったんだ。物心ついてからずっと、いっつも自分の事ばっかり考えて我儘に生きていた或る日、ひと晩の内に立派な2本の角が生えてきちまったんだ。幸いにもこの角は、頭におっきめのコブが2個あるくらいにしか人様には見えないらしい。だけど俺と同類の鬼人間にははっきり見えるのさ、この角が。お前にも見えるんじゃねえのか、これが? 俺と同じように我が儘が高じて鬼になってしまった人間は一杯いる。我が儘? 我が儘なんてかわいいもんよ。不義や不倫どころか窃盗や強姦、更には殺人を犯して鬼になってしまった者までいるんだ。こればっかりは法律で裁きを受けたかどうかなんてのは全然関係がねえ。 人間と同じように鬼も年を取る。年と共に角が脆くなって抜けちまって、付け角をしてる年寄り鬼も少なくないね。何かの拍子に付け角が落っこっちまって、顔を真っ赤にして急いで物陰に隠れた爺いを見たこともあるぜ。本当に困っちまって真っ赤になったあの顔をお前にも見せてやりたかったぜ。あれこそ正に「赤鬼」だったな。 元々が人間なんだから、牙も渦巻く髪の毛もギョロ眼もありはしないんだ。目印は2本のこの角だけさ。鬼になった後も心が曲がり続けたために角まで曲がってしまった鬼。てめえが人間の心を喪して鬼になってしまった現実に耐え切れずに眼が線のように細くなって、更には失明してしまった鬼。鬼として生きていく自信が無くて自殺してしまった鬼までいるのさ。信じられるかい? 馬鹿な奴らだよ。角が生えて鬼になったからって、本当は人間と何ひとつ変りはしないって事が分らないんだからな。 お前にも鬼になる素質が十分にありそうだから、特別に俺様が発見した真理を教えてやろう。1) 人間と鬼の人生には次の4つしかない。人間として生まれて人間として死んで行く。人間として生まれて鬼として死んで行く。鬼として生まれて人間として死んで行く。鬼として生まれて鬼として死んで行く。2) 人間として死んだら、人間として生まれ変わる。鬼として死んだら、鬼として生まれ変わる。3) 人間と鬼の違いはただひとつ、「こころ」だけである。4) 心の遣い方にはふたつある。「人間の心遣い」と「鬼の心遣い」とである。心の遣い使い方で 人間度/鬼度が決まる。人間と鬼は、100%の人間と100%の鬼との間を常に行ったり来たりしているのだ。5) 人間から鬼になってしまうのはとても簡単である。「これくらいは…」は鬼への一番の近道だ。これとは反対に、鬼になってしまった者が人間に戻るには非常な努力と困難が伴う。6) 鬼は節分の豆など少しも恐くはない(人間も馬鹿なことを考えるものさ)。鬼は何も恐れはしないのだ。人間こそ鬼を恐れる。それは「自分も鬼になりはしないか」という恐れなのだ。7) 鬼は清らかな心(=人間の心)に永遠に憧れる。それは、喪った清らかな心を取り戻して、ふたたび人間になるまで続く。8) 100%完全な人間などほとんどいないように、100%完全な鬼もごくわずかだ。9) あらゆる人間のみならず、あらゆる鬼さえも、その究極の目標として、100%完全な人間を目指す人生の旅を続ける。100%の人間とは「神」のことらしい。10) 神になれるまで何度でも、人間も鬼も生まれ変わるらしい。「おっと、もうこんな時間か。俺はもう帰るぜ。せいぜい、鬼じゃなくって神に近づくことだな。飲み過ぎるなよ。じゃあな、あばよ」 会った時と同じように、ロウソクの炎が消えるごとく、フッと鬼はいなくなってしまった。 それとも酔っぱらいすぎて、私の意識が無くなったのだろうか?