もとやんの死生観
「死と生は等価値なんだ」と誰かが言った。・・・ああ、あれは渚カヲル君だったか。どんな人間でも、常に死とは隣り合わせ。一寸先は闇、人生は暗中模索五里霧中、転ばぬ先の杖を突きながら切り立った崖の細い道を七転八倒しながら転がっていくようなものだ。それはまさにライカローリングストーン。いつ闇の底に転げ落ちるか分からない。一向に減る気配のない自殺者の数。昔から比べたら物質的にははるかに満たされているのに、心の器は満たされることがない。満たされすぎて何を求めて良いのか分からないような渇望した魂は、安易な死を望む。人は泣きながら産まれてくる。暖かく心地よい母親の胎内から十月十日でひりだされ、肺を満たすスパイシーな空気と体にまとわりつく重力の重みに驚き、泣き叫ぶ。人は生まれ落ちたその瞬間から重い荷を背負わされ、長く辛い生のスタートを切るのだ。辛い生の中に輝く希望があるから、人は生きて行ける。苦しければ苦しい程、浮き立つ喜びがある。苦しい事に触れなければ、喜びの価値はわからない。だから親のスネをかじりながら部屋に引きこもっていると、楽しい事も楽しいと感じなくなってしまう。どうでもいい人生を、自ら断つことにためらいを覚えなくなる。母親の胎内のような苦しみのない部屋で羊水のようなぬるま湯に浸かりながら、衝動的な死を選ぶのだと思う。死刑制度問題がある。犯罪が低年齢化する一方で、人権を擁護しようと死刑を廃止しようとする声がある。俺は人権擁護とは反対の観点で、死刑には反対だ。重犯罪者には死ぬよりも苦しい生を味わい尽くさせるべきだと思う。死は一瞬、生は長い。もっとも、事件の被害者は加害者の死を望むことが多い。それもわからないではない。もし自分が同じ立場で大切な人間を失ったとしたら、どうにかしてこの手で八つ裂きにしてやろうと思うだろう。だから、どんな富裕な人間でも保釈されることなく、犯した罪に相応しい辛い刑を課すべきではないだろうか。いや、拷問しろとかそういうことではないけれど。死後の世界。俺は死んだら無だと思う。だから俺が死んだら葬式もいらない。墓もいらない。ただ何か一つ、体の一部でもいいし生前に愛用した物でもいい。残った人々の身近において、時々は語りかけて欲しい。そうすることによって、その人の心の中に生き続けるからだ。そうして、ほんの何人かでいいのだけれど、その人の中に生きられるような人間関係を築きたいと思う。辛く長い人生。だが今、俺は人生を楽しんでいる。10の苦しみの中から産まれる1の喜びをいとおしみながら生きている。22歳の春、都会のアパート、孤独の中で死を思ったあの時に、命を絶たなくて良かったと今、心から思うのだ。