母の命日4/26:母の病死、乳がん
日付が変わって、4/26、私の母、敏子の命日です。もうお母さんが亡くなってどれくらいたったろうか?もうすぐ、7回忌ぐらいだと思うけど、よく数えてないや。母が亡くなった日のことは今でもハッキリ憶えています.....私がまだ福岡ドーム(当時の名称)の近くで、一人暮らしをしていた日曜日。家にかえると、留守電ランプが点いていた。誰だろうと思い、再生ボタンを押す、あっ、上の姉の声だ。「お母さんが危ない、すぐに帰ってきて、日赤病院にいるから」顔からサーッと血の気が引いた。母は4年前に乳がんが発症し、転移をくりかえしていた。何日か前にお見舞いに行った時は、ほんとに、ほんとに母が小さくなっていた。見ていて痛々しかった。急いで、その当時所有していた中古車にのり、高速で熊本の日赤病院に向った。病室につくと、下の姉の義理のお母さんが、母の足をさすっていた。母は、鼻から口から、下のほうまで管を通されていた。もう意識がなかった。ただ、生きているというだけの状態だった。足をさすったけど、何の反応もなかった。医者が言うには、もうダメだろうということだった。飲まず食わずだった私と上の姉は、とりあえず病院を出て、弁当を買って食べることにした。しょうが焼弁当を食べていたら、下の姉から連絡がはいった。お母さんが今、息をひきとったと.....どうやら、母は、福岡から私が帰ってくるのを待っていてくれたらしい。私に会えたので、安心してあの世にいったんだろうと姉たちが言ってくれた。母の死んだ姿を見て、なんだろう、この虚脱感というか、何も考えたくないという気持ちは、ドラマや映画なら悲しみにくれて泣くのだろうが、泣けなかった。ただ、母のことを思うとやっと、ガンの苦しみから解放されて良かったという気持ちもあった。乳がんと闘い、乳房を失い、抗がん剤の作用で髪が抜け落ち、体調も悪くなり、おまけに父の借金で家はボロボロ。乳がんとの闘病と家の借金の問題で、あなたは実の子供たちに"死にたい"と言いましたね。姉達からそのことを聞いて、私が家に帰ってあなたにそのことを問いただすと、私にも面と向って"死にたい"と言いましたね。あなたの辛い状況をわかっていながら私はこう言いました。"実の母から面と向って死にたいと言われた子供達も辛いよ、悲しいよ。そういうことは言わないで、頑張ろうよ"でも、あなたの意識のない状態を見て、もう楽にさせてあげたい。十分頑張った、もう良いだろうと思った。肉体的にも精神的にも辛かったね、お母さん、ゆっくり休んでください。それから、通夜、葬式となり、葬式の時にたまらず、泣いてしまった。上の姉は、親戚の叔母からなぐさめの言葉をかけてもらった時に、かなり泣いていた。下の姉は私と同じようにこらえながら泣いていた。その後、数ヶ月は、仕事もプライベートも何もかも身が入らなかった。自分の中で何かが、ぽっかり抜け落ちたようだ。この穴がふさがるまでは、かなりの時間が必要だった。普段、職場でも周りとコミュニケーションをとっていた私が、急におとなしくなったので、すぐ仲の良い仲間達に気づかれた。母が亡くなったことは、職場では一部の人しか知らなかったのですが....こういう時って、本当に人のやさしさ、温かさを感じられる。お母さん、そっちはどうですか?じーちゃんと仲良くやってますか?こっちはあなたが残していってくれた、大荷物が相変わらず、やってくれてます、ほんとに大きな子供です、早く迎えに来てください。あなたが一番可愛がってくれた息子は結婚しましたよ。お嫁さんは、あなたと同じく気が強いです、子供も生まれて、今年の7月には3歳になります、10月には次の子も生まれる予定です。あなたには、結婚式に出て欲しかった。でも婿養子になることには反対したでしょうか?ちょうど今、夫婦喧嘩中です。あなたと同じく気が強いのも考えモンです。少しは旦那を立ててくれないと...あなたも良く父に噛み付いてましたね。金曜日になりますけど、お墓参りに行きますね、孫の顔を見てください。私に似て、天然パーマのゲジゲジまゆげです。どうも、愛想が良いところも似てるようです。あなたには孫と一緒に遊んで欲しかったな。でも、それも、かなり後になりそうです、それまで気長に待っててくださいね、それでは、また.....あなたの息子より。