バレンタイン小説
「ある一人の人間のそばにいると,他の人間の存在など全く問題でなくなることがある。それが恋というものである。」―――ツルゲーネフ彼と両思いになれなくても構わない。ただ、私の思いを伝えたいだけ。If it were not for the fact , I would have a hope.私は、一仕事をし終えて深く息を吐いた。軽く額に浮かんだ蒸気を服の袖で拭い取ると、包丁やまな板の散らばる世界から窓外の世界へ目を移す。家の外には漆黒の世界が湛えられている。外に向かう目を、部屋の中へ戻す。そして更に、その中にある大時計に目線を遣る。面白い偶然もあるものだ。時計の中では、せいたかのっぽと小人が追いかけっこをやめ、二人で天頂を指し示していた。旧名「如月」の14日を迎えたのである。…どうやら思いの外、私は時間を忘れていたらしい。「一つの物事にのめり込むと寝食も忘れてしまう性分というのも考えものだなぁ。」心の内で密やかにそう呟くと、先程とは違った吐息を漏らした。いわゆる「溜息」というやつだ。私が今回そこまで熱中していた「一つの物事」とは、ずばりバレンタインにあげるチョコケーキのことである。元来手先の器用な方ではない私だが、やはりかなり真剣に作っただけあって、「市販品と並べても見劣りはしないのではないだろうか。」と思う。「これなら仲村くん、受け取ってくれるかな…。」ラッピングもされずに目の前に置かれているチョコケーキを、ひたすらじっと眺める。うん。やっぱり、私の作ったチョコケーキにしては上出来だ。あんまり自分の作るものを褒めすぎるとナルシストみたいかもしれないけど、でも普段の私が私なだけに、このベタ褒めは許容範囲だと思う。(なんせ私の家庭科の成績は、高校生になっても2のままなのである。悪い時には1を貰ったこともある。)両思いになろうとか、そんな大層な野望を秘めている訳じゃないの。ただ、このケーキを渡して、思いを伝えたいだけ。私の沈んだ心を浄化してくれた彼に、お礼をしたいだけ。それだけなの。…ねぇ、だから神様、どうか邪魔をしないでください。私の幸せを願ってくださいなんてワガママは言いません。だからお願い、私を見守っていてくださいね。目を閉じて天を仰いで囁いたその声を、神様は聞いていてくれただろうか。「聞いていてくれたらいいな」と思いながら、私はチョコでベトベトになったボウルやゴムべらを片付け始めた。メトロノームのように規則的にコツコツと音をたてる大時計が、「早く寝ないと美容に悪いよ」と私を急かす。「はぁい。」と時計に小さく返すと、私は片付ける手を早めた。そうしながら、仲村くんに思いを馳せる。仲村隼人くん。日本史で習った「薩摩隼人」と同じ「はやと」という名の持ち主だ。しかも彼は、育ちは埼玉ではあるものの、生まれは鹿児島なのだと言っていた。(薩摩とは、現在の鹿児島県のことである。)もしかしたら薩摩で生まれたから、ご両親が彼に古来その地に生きた「隼人」の名前をつけたのかもしれない。私は勝手にそう考えている。私が彼と初めて出会ったのは、梅雨にさしかかろうとする五月のある日だった。大好きなペットだった「レオ」が老衰でこの世を去ったあの日の昼、空は私の代わりに泣こうと準備を始めていた。練習熱心な運動部の人達にとっては迷惑な雨雲だったかもしれないけれど、泣くのを我慢していた私にはとてもありがたかった。だって空が泣いてくれたら、もし外に出た時に堪えきれずに泣いてしまっても、他の人に怪しまれたり心配されずにすむからだ。だから私は、午後の授業中はずっと空から涙が降るのを待ち続けた。私の思いに応えるかのように雨雲が空を支配していき、校庭が徐々に影に覆われていった。程なくして、沢山の涙が地面を叩く音が辺りに反響し始めた。放課後になってもその雨脚は衰えることがなかった。「お蔭で俺達は校舎の中をマラソンする羽目になっちまうよ。」と、野球部に所属する幼馴染の桐生 海(きりゅう かい)が休み時間に私の所までボヤきに来た時には、「嫌な雨雲だよねぇ。」と相槌を打っておいた。けれど本心では雨が降ってとてもほっとしていた。この天気なら、レオのことを全力で思ってあげられるから。そういえば、海にはレオが天国へ逝ってしまったことをその日の朝に伝えたんだった。だから、彼はいつになく休み時間に私の席まで遊びに来てくれたのかもしれない。彼にもそういう優しい所があった。一旦データが消えたりする前にUPします。すぐ付け足します。