沖縄日記2
沖縄の二日目(1月28日)。 西尾先生のプログラム通りに動きました。 午前中から午後3時ぐらいまで、戦跡をめぐりました。 沖縄戦のときに、首里城に設けられた日本軍司令部の様子、陸軍病院の跡、平和祈念資料館などを車で巡りました。 さとうきび畑が丁度収穫期で、刈り取ったさとうきびをトラックで運ぶ様子を車中から伺いました。西尾先生によれば、現在はほとんどクレーンなどを使っているが、トラックに運ぶまでが重労働とのこと。 平和祈念資料館では、「ひめゆり学徒隊」の生き残りの証人の方からお話を伺いました。本当に偶然でしたが、軍隊に見捨てられた怪我をした軍人の方や、友人が目の前で爆弾の破片で亡くなっていった様子、直撃を受けて亡くなっていった様子を伺いました。また、途中から「自己責任で解散」と告げられて放り出されて戸惑ったこと、死ぬ覚悟で兵隊さんたちについていこうとしていたのに、気持ちがそれで切れてしまったこと、軍隊は最後は責任を持たないことなどを震える声で話してくださいました。 その後、昼食を食べて、2,3日前に不発弾が爆発してけが人が出たというところを訪ねました。道路工事現場でした。どんなところにどれだけ不発弾があるか、わからないという恐ろしさを感じましたが、通常はそんなに爆発はしないのだ、ということでしたが...。 午後3時半からは、沖縄戦で命を落とした兵士たちの遺骨収集をしている具志堅さんのお話を伺いました。こちらに関連記事があります。 遺骨を収集して、遺族のもとに返そうとしているのですが、それは失われた命への畏敬があるからですが、一方では市民の手で遺骨を収集することによって、国は最後まで兵隊を面倒見なかったという実績にしようとしています。その結果、兵役を拒否する理由にしたいとのことでした。実際、遺骨発見の現場に行き、壕の様子や今なお残っている持ち主の分からない水筒や石鹸箱、さびた肥後の守などの遺留品、薬品ビン、手榴弾(さびたものだけでなく、陶器製のものもありました)なども残っていました。具志堅さんは「ガマフヤー」という名前のボランティア団体を作っているのですが、ガマ(壕)フヤー(堀人)とのことでした。また、彼は、不発弾処理の問題にも関わっていて、沖縄戦の後64年が過ぎようとしている今もなお、戦争の爪あとがこうして残されていることに恐ろしさを感じました。もっとハイテクに残酷になっていく現代の戦争は、より傷跡は深く残すはずです。地道な活動が戦争をしない国につながるように祈りました。 最後は、那覇中央教会の祈祷会に参加。昨年4月よりその教会の牧師となった久保礼子牧師のお話を聞きました。久保先生は、わたしが神学校のときに牧会カウンセリングでお世話になった先生です。お連れ合いを神奈川に残しての単身赴任、毎朝Auの無料通話を利用しているとのこと。(どうでもいい話ですが...)