日近城址(愛知県岡崎市桜形町)
日近城は、文明十年(1478)作手亀山城三代目の奥平貞昌が、日近郷名之内村の広祥院(こうしょういん)裏山に築いたお城です。貞昌の次男・貞直が跡を継ぎ、日近奥平氏の初代となりました。日近城主貞直は今川氏に属していましたが、本家で兄の亀山城四代目貞勝が、田峯城四代目菅沼定継と共に、今川氏から離反し織田氏に属したため、弘治二年(1556)に『日近の戦い』がありました。日近の戦いで、今川勢の松平義春(東条松平家の祖)に攻められ籠城戦で乗り切りましたが、半年後に、奥平貞勝の家臣・阿知波定直の雨山城(額田郡)において、『雨山の戦い』があり、東三河の今川勢、伊奈城主(宝飯郡現豊川市)本多忠俊と野田城主(新城市豊島)菅沼定村らの攻撃にあい、西三河の雨山城を防衛できず、貞勝は今川氏に帰属しました。このころ日近奥平氏は作手奥平氏と対立していて、兄貞勝に弟貞直は放逐され、人質だった貞直の長男彦九郎は討ち取られました。永禄三年(1560)桶狭間合戦で今川義元敗死後、永禄七年(1564)日近城を継いだ貞直の子貞友は、作手奥平氏とともに、家康に従います。元亀元年(1570)甲斐国武田信玄の徳川領三河国侵攻が活発になり、武田勢秋山信友(虎繁)に落とされ、日近城主二代目貞友の娘「おふう」と、亀山城五代目奥平貞能の次男「仙千代」は人質として甲斐へ送られました。元亀四年(1573)奥平氏は武田氏を見限り家康に帰属したため、人質達は鳳来寺口で処刑された。「おふう」の乳母らがおふうの首を、故郷の日近城まで運んで供養しました。天正十八年(1590)関東移封により廃城となりました。日近城の麓の広祥院に、日近奥平氏の歴代墓所と, 武田氏の人質となっていた「おふう」の墓があります。おふうの墓は、鳳来寺入口にもありました。日近城址所在地: 岡崎市桜形町般興楽天トラベル